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玉縄首塚は、里見氏の鎌倉来襲による戦死者の供養塚。 1526年(大永6年)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込むと、玉縄城の北条氏時(北条氏綱の弟)がこれを迎え撃ち、戸部川(柏尾川)付近で激しい戦闘となった(参考:里見氏の鎌倉来襲)。 この戦いで両軍ともに多くの戦死者を出し、氏時方では甘糟氏をはじめとする30数名が里見軍に首を取られた。 合戦後、氏時は、里見方に申し入れて、互いに討ち取った首を交換し、この地に葬ったのだと伝えられている。 塚に聳える榎(エノキ)は、このときに植えられたものと伝えられ、「甘糟榎」と呼ばれている。 塚も「甘糟塚」と呼ばれていたが、現在は「玉縄首塚」と呼ばれる。 |
※ | 里見実堯は里見氏の当主義豊の叔父。 近年では、当主の義豊による進攻だったという説もある。 |
「里見氏」は源義家を祖とする清和源氏(河内源氏)。 新田義重の子・義俊が上野国碓氷郡里見郷を領したことから「里見」を名乗ったのを始まりとする。 義俊の子義成は源頼朝の御家人に加えられ、以後、鎌倉幕府に仕えた。 鎌倉幕府滅亡時には新田義貞と行動を共にし、南北朝の動乱では一族が別れて戦ったという。 戦国時代に入ると嫡流の里見義実が安房国に入り勢力を張った。 1526年(大永6年)の鎌倉来襲時の大将を里見義弘とする案内もあるが、このとき攻め込んできたのは里見実堯(これにも諸説ある)。 |
1526年(大永6年)、里見実堯は軍船数百で鎌倉の海岸に押し寄せ、由比ヶ浜や材木座海岸から上陸した。 そのため、鎌倉市中でも小田原の北条氏綱との激戦が繰り広げられ、ついには鶴岡八幡宮も炎上している。 『里見代々記』によれば、これを「不吉なり」として退却したのだという。 |
玉縄城址 |
里見氏の鎌倉来襲 |
里見義弘が鎌倉に攻め込んできたとされるのは、1556年(弘治2年)の三崎の戦(北条氏と里見氏の海戦)のとき。 里見軍が実際に鎌倉に上陸したかは定かではないが、鎌倉尼五山第一位だった太平寺の住職青岳尼が義弘とともに安房に渡ったため、太平寺は廃寺となったと伝えられている。 |
毎年8月、首塚を供養する「玉縄首塚まつり」が開催されている。 |
戦国時代の名城「玉縄城址」周辺を散策 玉縄首塚まつり〜北条・里見の鎌倉合戦戦死者の供養〜 玉縄城址探索ウオーク(玉縄城築城500年)2012/10/28 |
鎌倉市岡本2−2−20 JR大船駅より徒歩5分 |
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