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西御門の来迎寺がある辺りには、鎌倉尼五山第一位の太平寺があった(来迎寺裏のテニスコートが太平寺の跡といわれている。)。 太平寺は、源頼朝が平治の乱で捕らえられたときに命を助けてくれた池禅尼の恩に報いたいるため、禅尼の姪の 「尼になりたいと思っている世の女人のために尼寺を建立したい」 という願いを聞き入れて建てさせた寺がはじまりだと伝えられている。 のちに、鎌倉公方の足利基氏の妻清渓尼によって中興され、以後、代々足利氏の息女が住職を勤め、鎌倉尼五山第一位として興隆をきわめた。 しかし、1556年(弘治2年)、安房の里見義弘が鎌倉に攻め入った際に、住職の青岳尼(義弘の最初の正室)が安房に渡ったため廃寺となっている。 |
太平寺跡の石碑には、池禅尼の姪の開山と記されているが、一般的に太平寺の開山は、妙法尼といわれている。 相模の豪族の娘で千葉氏に嫁いだのだという。 池の禅尼の姪との繋がりは不明。 1282年(弘安5年)頃に開かれ、大休正念を導師として仏殿供養が行われた。 |
戦国時代、関東では古河公方と小弓公方が、それぞれ北条氏と上杉氏と連合を組んでいた。 北条氏と争っていた房総の里見氏は小弓公方を支持していたため、小弓公方の足利義明の娘と里見義弘とは恋仲になった。 この娘が太平寺の住職青岳尼。 鎌倉を攻めた里見義弘が青岳尼を連れ去り結婚してしまったため、太平寺は住職を失い北条氏康によって廃寺とされた(参考:玉縄首塚 里見氏の鎌倉来襲)。 |
※ | 青岳尼が鎌倉を離れる際、聖観音像を持ち去ったが、のちに鎌倉に返され、現在は東慶寺に安置されている。 (土紋装飾が施された仏像の1つ) |
※ | 小弓公方と呼ばれた足利義明の長女は青岳尼となり太平寺へ、次女は旭山尼として東慶寺に入っている。 |
太平寺の仏殿だった建物は、現在の円覚寺塔頭正続院にある舎利殿。 室町時代中期(15世紀)頃の建築物と推定され、日本最古の唐様(禅宗様)建築物。鎌倉の建築物では唯一「国宝」に指定されている。 |
太平寺が廃寺となった後、江戸時代には紀伊徳川家の家老水野重良が夫人の追福のために日蓮宗の「高松寺」(尼寺)が建てられた(1643年(寛永19年)。 開山は、水野重良の娘で日隆尼。 しかし、1923年(大正12年)の関東大震災で全壊し、宮城県若柳町に移った。 鎌倉山にある料亭「らい亭」の山門は高松寺の山門を移築したもの。 |
鎌倉市西御門・来迎寺下 鎌倉駅東口から徒歩15分 |
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