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戦国時代の下剋上の中で、関東では伊勢新九郎(北条早雲)が小田原に進出し、三浦道寸を三崎の新井城に破り、三浦半島にまで勢力を伸ばした。 北条氏の台頭は、安房で勢力を伸ばしていた里見氏にとっても脅威であった。 里見実堯は、小弓公方と呼ばれた足利義明と組んで北条氏綱(北条早雲の嫡男)に対抗することとなる。 その頃、北条氏は古河公方の足利晴氏を利用し、上杉氏は小弓公方足利義明と組んでいた。 足利義明は、先祖が御所を置いた鎌倉への進出を狙い、里見実堯は三浦半島から北条勢力を除きたいと考えていたことから、双方の利害が一致していた。 |
1526年(大永6年)、里見実堯は鎌倉を襲撃した。 実堯は水軍を用いて由比ヶ浜から上陸し、北条軍との間で乱戦となった。 この戦いによって鶴岡八幡宮が炎上焼失している。 どちらの軍が火をかけたのかは明らかではないが、里見氏は八幡太郎義家を祖とする源氏であるといわれ、鶴岡八幡宮の焼失を見た実堯は、早々に軍を引いたといわれている。 その一方で、玉縄城主北条氏時と戦ったという記録も残されている。 氏時は戸部川で里見軍の攻撃を防ぎ、その際の戦死者を葬ったのが玉縄首塚なのだという。 実堯は、優勢に戦っていたと考えられているが、何故兵を引いたのかは不明。 里見氏は、1538年(天文7年)、小弓公方足利義明が戦死した後も上杉謙信と組んで北条氏康と戦うなど、徹底して北条氏に敵対した。 のちに、安房の里見氏は、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』に描かれている。 |
玉縄首塚まつり |
玉縄城址 |
玉縄首塚には、討死した玉縄城主北条氏時の家臣が葬られたと伝えられ、毎年8月には、首塚を供養する「玉縄首塚まつり」が行われる。 |
「里見氏」は、新田義重の子義俊が上野国の里見を領し「里見」を名乗ったのをはじまりとする。 鎌倉時代には源頼朝の御家人となり、新田義貞の鎌倉攻めでは倒幕軍に加わっている。 戦国時代には、里見義実が安房国に入って割拠した。 安房国の勝山城は、里見氏の支城で、里見水軍の拠点としての役割を果たした。 勝山城址のある鋸南町は、「源頼朝の上陸地」としても知られている。 |
小弓公方足利義明の死後、長女は青岳尼となり太平寺へ、次女は旭山尼として東慶寺に入った。 西御門にあった尼五山第一位太平寺は、1556年(弘治2年)、里見義弘(実堯の孫)が鎌倉に攻め入った際に、住職の青岳尼が義弘とともに安房へ渡ったため、北条氏康の怒りに遭い廃寺にされたといわれている。 |
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