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築地本願寺(つきじほんがんじ)は、1617年(元和3年)に京都の西本願寺の別院として浅草に創建された。 江戸城の天守も焼失した1657年(明暦3年)の明暦の大火により本堂を焼失。 その後、江戸幕府から代替地として与えられたのが築地。 当時は、八丁堀沖の海上だったが、佃島の門徒が中心となって海を埋め立てて土地を築き、1679年(延宝7年)に再建された。 これが築地という地名の由来となった。 1923(大正12年)の関東大震災で再び焼失。 現在の本堂は、東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太の設計で、1934年(昭和9年)の竣工。 浄土真宗本願寺派。 本尊は阿弥陀如来。 |
本願寺は、京都東山に浄土真宗開祖の親鸞の廟堂(墓地)が創建されたことに始まる。 通称の「西本願寺」は、浄土真宗大谷派の本山・真宗本廟(東本願寺)と区別するために付けられた名。 築地本願寺を開いた准如は、本願寺12世。 |
1644年(正保元年)、徳川幕府から鉄砲洲向かいの干潟を賜った摂津国佃島の漁師たちが築島したのが江戸佃島。 摂津国佃島の庄屋・森孫右衛門をはじめとする漁師たち三十数名の割り当て所有となったのだという。 ただ、孫右衛門は摂津国で亡くなり、弟の九左衛門は日本橋に魚問屋を開いたため、従弟の忠兵衛(九左衛門の娘婿)が江戸佃島の長として「佃忠兵衛」を名乗り初代名主となった。 忠兵衛は、佃島の造成や築地本願寺の再建に尽力。 九左衛門家は六代まで続くが、その後は嗣子不在で絶家となり、七代目の森幸右衛門からは「森」姓を継承した。 「森」は徳川家康から賜った姓なのだという。 報恩塔は、十代名主の森幸右衛門勝鎮と親族の佃宇右衛門寛敏が、1861年(文久元年)に建立したもの。 |
佃島の住吉神社は、摂津国佃島の住吉神社の分霊を祀った社。 社伝によると・・・ 1590年(天正18年)の小田原征伐後、徳川家康が江戸城に入ると、摂津国佃島の漁師も江戸に下ったのだという。 また、庄屋の森孫右衛門には、本能寺の変後、伊賀越えで三河国の岡崎城に帰還した家康を救ったという伝説も・・・ |
東京都中央区築地3−15−1 東京メトロ日比谷線「築地」駅直結 東京メトロ有楽町線「新富町」駅から徒歩5分 都営地下鉄浅草線「東銀座」駅から徒歩5分 都営地下鉄大江戸線「築地市場」駅から徒歩約5分 |
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