木曽義仲は源義賢の次男。 1155年(久寿2年)8月16日、父の義賢が源義朝の長男・義平(頼朝の異母兄)に大蔵館を攻められて滅ぼされると、まだ3歳だった義仲は、乳母夫の中原兼遠に連れられ、信州の木曽で育てられます。 『吾妻鏡』によると・・・ 木曽で成人した義仲には、平家を征伐して家を興したいという考えがあったようです。 そんな中、源頼朝が挙兵。 義仲はすぐに参陣しようと思ったようですが・・・ 1180年(治承4年)9月7日、小笠原頼直が義仲討伐のため木曽侵攻を企てます。 それを察した村山義直と栗田寺別当・大法師範覚が出陣し、信濃国市原で合戦が始まりました。 合戦は日暮れまで続きますが、村山義直の矢が尽きてしまいます。 村山義直からの援軍要請を受けた義仲は、大軍を率いて助勢に駆けつけます。 その威勢に怖れをなした小笠原頼直は、城長茂を頼って越後国へ逃げて行ったのだといいます。 |
※ | この合戦が史料でみることのできる義仲が関与した最初の戦いです。 |
木曽義仲の墓 (大津市義仲寺) |
大蔵館 (嵐山町) |
市原合戦後の10月13日、木曽義仲は亡き父義賢の本拠を訪れるために、上野国へ行っているようです。 |
旗挙八幡宮は、戦勝を祈願したという社。 木曽に館を構えた木曽義仲が京都の石清水八幡宮を勧請して祀ったのだと伝えられています。 |
石清水八幡宮で元服した木曽義仲〜平家物語〜 |
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