1184年(元暦元年)8月8日、一ノ谷の戦い後、鎌倉に帰還していた源範頼が平家追討のため鎌倉を出発します。 頼朝は、この出陣を稲瀬川に桟敷を設けて見送ったのだといいます。 |
当時の鎌倉の西の境は稲瀬川付近であったと考えられています。 |
範頼の行列は・・・ 旗持ちと弓持ちが前を行き、次に、範頼が栗毛の馬にまたがり、 供一千騎と乗り換えようの馬が続いていました。 従う武将は、 北条義時・足利義兼・武田有義・千葉常胤・境常秀・三浦義澄・三浦義村・八田知家・八田朝重・葛西清重・長沼宗政・結城朝光・比企宗朝・比企能員・阿曽沼広綱・和田義盛・和田宗実・和田義胤・大多和義成・安西景益・安西明景・大河戸広行・大河戸三郎・中条家長・工藤祐経・工藤祐茂・天野遠景・小野寺道綱・一品房昌寛・土左房昌俊など・・・。 |
頼朝は、上洛した範頼に「京都に滞在することなく直ちに西海へ向かえ」と命令していたといいます。 義経の無断任官の問題があったことから、後白河法皇をはじめとする公卿に接触させないための命令だったと考えられます。 そんな中、範頼は、京都で養父の藤原範季に会います。 範頼の「範」の字は、範季の「範」をもらったものといいます。 しかし、範季が範頼に養父であることを話すと、「そんなことは聞いてもいないし、知ってもいない」と答えたといいます。 頼朝の命令にかなりの効果があったということなのでしょうか・・・。 |
9月2日、京都を発った範頼でしたが、兵糧米が不足し、軍の士気が著しく低下してしまうという事態に陥ってしまいます。 侍所別当の和田義盛も鎌倉に帰ろうとしていたことが『吾妻鏡』には記されています。 そんな苦境を乗り越え、1185年(文治元年)正月26日、何とか九州に渡った範頼は、平家の背後を固めます。 義経の奇襲攻撃で知られる屋島の戦いの際には、範頼が背後にいるため平知盛は長門を動くことが出来なかったといいます。 範頼と義経に挟み撃ちされた平家は、3月24日の壇ノ浦の戦いで滅亡しました。 |
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