1184年(寿永3年)1月26日、源頼朝は正式に平家追討の勅命を受けます。 一方、都落ちをした平氏は、一時、九州太宰府まで落ちのびますが、徐々に勢力を盛り返し、かつて平清盛が夢みた都「福原」まで東進していました。 2月6日、福原で平清盛の三回忌の法要を営んでいた平家のもとへ、後白河法皇の近臣の使者が文書を携えて到着します。 文書には、「和平交渉のための使者が8日に京を出て下向するから、武力行動をしないように」 という内容のものだったといいます。 平家方はこれを信じていたのですが、翌7日には源氏の総攻撃が開始されたといいます(一ノ谷の戦い)。 摂津国一の谷の戦いでは、生田ノ森から源範頼が、一ノ谷から安田義定が、そして、背後の山から源義経が攻撃を仕掛けたことで平家軍は大混乱となり、 多くの大将が討ち取られ、南都を焼討した平重衡が生け捕りにされました。 討ち取られた大将の中には、16歳の平敦盛もいました。 一ノ谷の戦い後、武士の横領・狼藉の禁止令の発布と、その実行を頼朝が行う旨の勅令が出されます。 これによって、頼朝は全国の武士の頂点に立ちます。 |
※ | 一ノ谷の戦いは、義経の「鵯越の奇襲攻撃」が中心に語られがちですが、合戦そのものが奇襲であり、悪く言えば「騙し討ち」であったとも考えられます。 |
後白河法皇の謀略か? 鵯越の逆落とし (源義経伝説) |
平家追討のため出陣した源範頼を、頼朝はここから見送ったのだといいます。 源範頼の出陣 |
一ノ谷の戦いで敗れた平家は、屋島に逃れていました。 当初、頼朝は義経を起用して平家を攻めようと考えていましたが、このころから後白河法皇の義経登用が目立つようになり、ついに義経は、頼朝の許しなく検非違使に任官してしまいます。 怒った頼朝は、義経を解任して、範頼を総大将として西上させることとしました(この対応には諸説あるようです。参考:三日平氏の乱) 。 9月に京を発った範頼の東国軍は、兵糧の調達に苦労しながら、翌年正月になって長門国に到達しています。 しかし、士気は衰え、侍所別当の和田義盛が「関東に帰りたい」などと言う始末であったといいます。 こうした状況の中で頼朝は、再び義経を起用することにします。 1185年(元暦2年)2月17日、義経は風雨のなか出帆して阿波国に渡り、19日の朝には讃岐国の屋島を襲撃します。 陸上からの攻撃を予想していなかった平家軍は不意をつかれ海上に逃れました。 熊野別当湛増などの水軍を味方に引き入れた義経は、平家を追い詰めると、3月24日、長門国の壇ノ浦で平家軍を全滅させました。 平宗盛は捕えられ鎌倉へ送られています。 |
一ノ谷古戦場 |
屋島古戦場 |
海を馬で渡った佐々木盛綱〜源平合戦:藤戸の戦い〜 葦屋浦の戦い 日の丸御旗〜源義経・北畠顕家・武田信玄・徳川家康が掲げた旗〜 |
多井畑厄除八幡宮は、源義経が一ノ谷の戦勝を祈願したという社。 |
赤間神宮は、平家一門とともに入水した安徳天皇を祀る社。 |
一ノ谷で捕えられた平重衡が頼朝より与えられたという阿弥陀仏が本尊。 |
壇ノ浦で捕えられた平宗盛が持っていたという平家の赤旗が残されています。 |
捕えられた平宗盛は、鎌倉へ送られた後、近江国篠原宿で斬首。 |
平重衡と平宗盛 壇ノ浦の戦いと三種の神器と頼朝・範頼・義経 後白河法皇の謀略か?〜平宗盛の手紙〜 |
寂光院 (京都) |
建礼門院大原西陵 (京都) |
安徳天皇の母は、平清盛の娘徳子。 平家一門や安徳天皇とともに海に飛び込みますが助けられました。 その後、出家して京都大原の寂光院に隠棲して、平家一門と安徳天皇の菩提を弔ったのだといいます。 |
岡部忠澄の墓 (深谷市) |
平忠度の供養塔 (深谷市) |
一ノ谷の戦いで平家の大将平忠度を討ち取った岡部忠澄は、戦後、忠度を弔うために供養塔を建てたのだと伝えられている。 |
西国で平家追討の戦いが行われている間、鎌倉では、政治・財政を司る公文所(1184年(元暦元年)8月14日設置)と、裁判を司る問注所が設置されています(同年10月20日)。 公文所別当には大江広元が、問注所執事には三善康信(善信)が就任しています。 |
木曽義高の誅殺 |
義経追放 |
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