源義経は、源義朝の九男として誕生します。 母は常盤御前。 幼名は牛若。 幼少時代は鞍馬寺で過ごし、15歳のときに寺を抜け出して奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。 1180年(治承4年)に兄頼朝が挙兵すると、秀衡の制止を振り切り、兄のもとへ馳せ参じています。 そして、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いで平家を撃ち破り、平家を滅亡させた最大の功労者となりますが、許可なく官位を受けたことなどの問題で頼朝の怒りをかいます。 |
牛若丸誕生井 (京都市北区) |
源義経産湯遺址 (京都市北区) |
鞍馬寺 (京都市左京区) |
首途八幡宮 (京都市上京区) |
一ノ谷古戦場 |
屋島古戦場 |
鎌倉の頼朝の政権は、御家人の賞罰は頼朝が決定することと決まっていました。 また、それが新しい政権の求めるものでもありました。 朝廷にも、頼朝の申請に従って行賞されるよう申し入れされています。 しかし、頼朝の代官として京にいた義経がその規定を破り、後白河法皇から無断で検非違使左衛門少慰に任命され、続いて、従五位下に叙せられ、さらに院内の昇殿まで許される出世を果たしてしまいます。 後白河法皇としては、頼朝一人に力が集中することは好ましいことではありませんので、義経と頼朝を対立させ互いに牽制させながら、自らの地位を高めようと考えていたのでしょう。 |
平家滅亡の報が届くと頼朝は、許可なく朝廷の官職についた25名に対し、墨俣川以東へ入ることを禁じ、これを破った者は本領を没収し斬罪に処するという命令を出しました。 ただ、この中に義経の名はありませんでした。 しかし、義経の名がなければ、禁令を受けた御家人やその関係者からの反発があることは必定で、そこまで計算された頼朝の計画だったといわれています。 義経の無断任官 |
鎌倉の頼朝のもとには、梶原景時の「合戦の手柄を自分一人のものとしようとしている」という書状や平時忠の娘(蕨姫)を娶ったという情報が寄せられます。 源範頼からも義経の越権行為に対する苦情が寄せられていました。 その他にも、義経に対する御家人の不満が頼朝のもとに届く中、1185年(元暦元年)5月4日、頼朝は畿内西国の御家人に「義経に従ってはならぬ」という命を下します。 義経の不義を訴える景時の書状 |
平家滅亡 |
義経の腰越状 |
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