|
首途八幡宮(かどではちまんぐう)は、宇佐八幡宮の祭神を勧請したのを始まりとし、もとは内野八幡宮と呼ばれていた。 源義経が鞍馬寺を出て奥州へ下るのを手助けしたという金売吉次の屋敷跡といわれ、その鎮守社だったと伝えられている。 1174年(承安4年)、義経はここで吉次と落ち合い、道中の祈願をして奥州へと旅立った。 そのため、「首途」(かどで)と呼ばれるようになったのだという。 一方で、この神社は平安京大内裏の北東に位置し、王城鎮護の社として重んじられ、清和天皇の第六皇子・貞純親王(桃園親王)の屋敷跡だったとも伝えられている。 |
誉田別尊 (ほんだわけのみこと・応神天皇) 比賣大神 (ひめおほかみ) 息長帯姫命 (おきながたらしひめのみこと・神功皇后) |
源義経は平治の乱が起こった1159年(平治元年)に源義朝の子として誕生。 母は常盤御前。 幼名は牛若。 平治の乱で父義朝が平清盛に敗れると、同母兄の今若と乙若は、それぞれ醍醐寺と園城寺で出家させられ、牛若も11歳のときに鞍馬寺へ預けられた。 稚児名は遮那王(しゃなおう)。 |
※ | 『平治物語』によれば、平治の乱後、常盤と三人の子は清水寺に参り、千手観音に無事を祈願したという。 |
しかし、出家することを嫌った遮那王は、1174年(承安4年)、自らの手で元服して「義経」と名乗り、奥州平泉の藤原秀衡を頼った。 鞍馬寺の背比べ石は、奥州へ下る遮那王が名残を惜しんで背を比べた石と伝えられている。 |
鞍馬寺 |
鏡の宿 (滋賀県) |
『平治物語』によると、鞍馬寺を出て奥州平泉に向かった遮那王は、鏡の宿で元服したのだという。 |
奥州平泉で藤原秀衡の庇護を受けていた義経は、1180年(治承4年)、異母兄の源頼朝が挙兵すると平泉を離れ、兄の下へ馳せ参じた。 |
源義経の奥州下り〜平治物語〜 『義経記』が描く源義経の奥州下り |
京都市上京区智恵光院通今出川上ル桜井町102−1 市バス「今出川大宮」下車 徒歩5分 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|