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岡部忠澄は、一ノ谷の戦いで平清盛の異母弟平忠度を討ち取ったことで知られる武将。 岡部氏は、武蔵七党の一つで小野篁の末裔を称す猪俣党の庶流。 忠澄の祖父忠綱が武蔵国榛沢郡岡部を領有したのが始まりといわれている。 忠澄は、源義朝の家人として保元の乱・平治の乱で活躍。 『平治物語』によると、待賢門の戦いで鎌田政長・佐々木秀義・熊谷直実・足立遠元・上総広常らとともに源義平十七騎に数えられている。 平治の乱で義朝が平清盛に敗れると岡部に戻っていたが、1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵するとこれに従った。 |
『平家物語』によると・・・ 源義経の指揮下で一ノ谷の戦いに挑んだ忠澄。 源義経の鵯越の奇襲、さらに源範頼が生田口から攻め込んだことで敗戦が濃厚となった平家軍。 その戦場で忠澄が見つけたのが、源氏に紛れて逃れようとしていた身分の高そうな武者。 「敵に背を向けて逃げるとは何事か」 と忠澄が声をかけると、その武者は戻ってきたのだという。 忠純が覗き見ると御歯黒をつけている。 源氏の武者ではないと察した忠澄は、その武者と組み合うが、大力の武者に討たれそうになってしまう。 そこへ、忠澄の郎党六野太が駆けつけ武者の右腕を切断。 形勢を逆転した忠澄。 これまでと思った武者は念仏を唱えはじめるが、念仏が終わらないうちに六野太が武者の首を落とした。 名も知らぬ平家の大将を討ち取った忠澄だったが、箙に結び付けられた文を見ると、旅宿の花という題で歌が一首書かれてあった。 「行き暮れて 木の下陰を 宿とせば 花や今宵の あるじならまし」 自分が斬った武者が平忠度であることを悟った忠澄は、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだのだという。 |
墓所には、六基の五輪塔が並んでいるが、右側三基の中央が岡部忠澄、その右が父行忠、左が妻玉の井のものと伝えられている。 |
一ノ谷の戦い後、岡部忠澄は平忠度を弔うため、領地のうちでも一番景色のよい場所に供養塔を建てたのだと伝えられている。 |
岡部神社 |
八幡神社 |
岡部神社は、岡部忠澄の祈願所と伝えられる社。 八幡神社は、忠澄創建と伝えられる社。 |
渋沢栄一が生まれた血洗島の鎮守諏訪神社は、岡部忠澄が戦勝を祈願したという社。 |
埼玉県深谷市普済寺962 |
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