源頼朝は、木曽義仲を征伐すると、人質として鎌倉に送られていた義仲の嫡子・清水冠者義高(木曽義高)を殺すことに決めます。 頼朝は、このことを近しい者に仰せ含めますが、それを聞いていた女房らによって内々に頼朝の娘・大姫に知らされます。 |
※ | 義高は大姫の許嫁という名目で鎌倉に送られていました。 |
※ | 義高の母は巴御前という説も。 |
1184年(元暦元年)4月21日の夜明け前、大姫は義高に女装をさせ、大姫の女房達が義高を囲んで屋敷から出しました。 馬は、他の場所に隠してありました。 馬蹄には真綿が巻かれ、蹄の音を人に聞かれないようにしてあったといいます。 義高の寝床には、海野幸氏が臥し、日が昇ると、双六をして義高がいるふりをしていました。 しかし、晩になってばれてしまいます。 怒った頼朝は、幸氏を捕らえ、堀親家以下の者に義高を見つけ出し討ち取るよう命じます。 大姫は、あわてふためき、魂が消えてしまうほどだったといいます。 |
※ | 海野幸氏は義高が人質として鎌倉へ送られる際に随行していた武将。 のちに弓馬四天王と称された弓馬の達人。 |
それから5日後の4月26日、堀親家の郎従藤内光澄が戻り、入間河原で義高を誅殺したことが報告されます(木曽義高の誅殺)。 そのことを知った大姫は嘆き悲しみ、水も喉を通らなくなりました。 母北条政子も大姫の心中を察して、義高の死を嘆き悲しみ、御所中の多くの男女が悲しみにひたったといいます。 その後大姫は、病床に伏し、日毎に憔悴していきました。 |
6月27日、政子は、大姫が病気になったのは義高を殺した藤内光澄の配慮が足りなかったとして斬罪に処したと伝えられています。 |
大姫の守り本尊が祀られている御堂。 |
義高の首が葬られているという塚。 |
清水八幡宮は、木曽義仲の嫡男で清水冠者と呼ばれていた義高を祀る社。 首を取られた義高の遺体は、里人によって入間河原に葬られ、北条政子が供養をし、義高を祀る社が建てられたのだと伝えられています。 |
影隠地蔵は、源頼朝の追手から逃れる木曽義高が、一時的に身を隠したという地蔵尊。 |
毎年5月のゴールデンウィーク期間中に入間川の河川敷には、義高の供養と子供たちの健康と成長を祈念して鯉のぼりが掲揚される。 |
木曽義仲追討 |
平家滅亡 |
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