平重衡は、平清盛の五男。 1180年(治承4年)12月、奈良の東大寺や興福寺を焼き尽くしたことで知られる武将。 1181年(治承5年)3月の墨俣川の戦いでは、源行家を総大将とする源頼朝軍に大勝しています。 この戦いが実質的な源平合戦の初戦といわれ、頼朝の弟義円が討たれました。 |
東大寺 (奈良市) |
興福寺 (奈良市) |
1184年(寿永3年)、一ノ谷の戦いで捕らえられた重衡は、3月28日、伊豆の国府で頼朝に対面します。 勝ち誇る頼朝に対し重衡は、「弓馬に携わる者、敵のために虜へらるること、あながち恥辱にあらず。早く斬罪に処せらるべし」 と述べたといいます。 この態度に感心した頼朝は、工藤祐経に接待を命じ、侍女の千手前を仕えさせて重衡を客として厚遇したそうです。 |
鎌倉に入った重衡は、 頼朝に一族の冥福を祈るよう阿弥陀仏を与えられたといいます。 その阿弥陀仏が教恩寺の本尊であると伝えられています。 |
一ノ谷古戦場 (神戸市須磨区) |
平重衡 とらわれの松跡 (神戸市須磨区) |
平宗盛は、平清盛の三男。 1181年(治承5年)閏2月、清盛が亡くなるとその跡を継ぎます。 清盛の「頼朝が首をはねて、わがはかのまえにかくべし」 という遺言を果たすべく平家軍の総大将として戦いますが、墨俣川の戦い以後、大きな戦勝報告を聞くことはできず、1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦に平家は滅亡します。 宗盛は海に身を投じますが生捕りにされました。 1185年(元暦2年)5月16日、鎌倉に入った宗盛は、「ただ愁涙に溺るるの他なし」という有様だったようです。 「助けてもらえるなら出家したい」 と嘆願したともいいます。 補陀洛寺には、平清盛が書いたという「九万八千軍神」の文字がある平家の赤旗が残されています。 宗盛が所持していたものと伝えられています。 |
1185年(元暦2年)6月9日、宗盛と重衡は、別々に鎌倉を発ちます。 宗盛を護送したのは、源義経。 宗盛は6月21日、近江国篠原宿で斬首されました。 重衡を護送したのは、1180年(治承4年)に以仁王とともに平家打倒の挙兵をして平等院で最期を遂げた源頼政の次男頼兼。 6月22日、東大寺の衆徒に渡された重衡は、翌23日、泉大津で斬首されました。 |
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