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1184年(寿永3年)2月7日、一ノ谷の戦いに敗れ、多くの有能な武将を失った平家。 南都焼討で知られ、墨俣川の戦いでは源行家を、水島の戦いでは木曽義仲を破るなどの活躍をした平重衡も捕らえられた。 『吾妻鏡』によると・・・ 2月15日、安徳天皇と三種の神器の返還を願う後白河法皇は、重衡を介して、平家の総大将・平宗盛にその旨を知らせる。 2月20日、一ノ谷の戦い後、屋島へ逃れていた平宗盛からその返信が届き、後白河法皇の要望に理解を示した上で次のように述べている。 「昨年7月、平家一門が都落ちして西国へ向かっている途中で、京都に戻るようにとの院宣が下されました。 その時は、京都に不穏な情報があったので、戻ることが叶わず、先へ進みました。 その後、京都も静かで穏やかになったという情報を得たので、昨年10月、鎮西を出発して帰ろうとしたところ、閏10月1日、備中国水島で院宣を携えているという木曽義仲に安徳天皇の還御を邪魔されました。 凶賊・木曽義仲を誅伐(水島の戦い)した後は、讃岐国の屋島に滞在し、今年1月26日、摂津国の一ノ谷に移り、法皇さまにこれまでの経緯をお知らせしています。 2月4日、亡き父・平清盛の三回忌供養を行おうと思いましたが、船を下りることができず、輪田の海辺を巡っていると、2月6日、藤原親信(修理権大夫)から手紙が送られてきました。 その内容は、 和平協議に関するもので、2月8日に藤原親信が正式な使いとして出向くので、安徳天皇のお答えを賜り帰るまでは、合戦をしないように。 この事は、鎌倉軍(源氏軍)にも伝えてある。 とのことでしたので、 法皇さまの使者を待っていたところ、2月7日、源氏軍に一ノ谷を攻撃されました。 平家としては、法皇さまからの「合戦をするな」との命がありましたので、反撃するわけにも行かずに退くと、源氏軍が勝に乗じて襲いかかってきたので合戦となってしまい、多くの兵を失いました。 和平協議の件、何よりも不審に思っております。 院宣を源氏軍には伝えていなかったのか? それとも源氏軍が院宣を無視したのか? あるいは、平家軍に油断をさせる計略だったのか?」 宗盛は、この他にも、いろいろと綴っていたようだが、 言いたかったことは「平家は後白河法皇の命に従って安徳天皇と三種の神器を返すつもりで行動していたにもかかわらず、一方で後白河法皇が源氏に平家追討を命じていたため、実現できなかった」といったところだろうか・・・。 参考までに・・・ 宗盛は、この手紙で平家の都落ちについても綴っている。 それによると、都落ちは木曽義仲に攻められたからではなく、後白河法皇が比叡山へ逃げてしまったためで、平家としては西国へ落ちるしかなかったというもの。 つまり、後白河法皇に見捨てられたということが、安徳天皇と三種の神器を奉じて都落ちした理由だということ。 |
『平家物語』によると、清盛は愛宕山(京都)で火葬され、遺骨は円実法眼によって摂津国に運ばれ、大輪田泊に築かれた経の島に納められたのだという。 |
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