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『吾妻鏡』によれば・・・ 1192年(建久3年)正月21日、永福寺建設現場の人夫のなかに左目を失った男がいた。 「あの男は何者か」と怪しんだ源頼朝は、梶原景時に調べさせるが正体は不明。 頼朝の前に召し出された人夫。 佐貫四郎大夫広綱が身体を調べると、懐に一尺あまりの打刀を所持していた。 そして、失明していたと思われた左目には、魚の鱗がはめられ、失明を装っていたことがわかった。 ますます怪しいので問いただすと、人夫は「上総五郎兵尉忠光」 と名乗り、頼朝を殺そうとしていたことを白状した。 頼朝は、忠光を和田義盛に預け、暗殺計画に組した者が他にいないか調べさせた。 尋問に対して忠光は、 「仲間はいない。ただし、去年丹波国に隠居した越中次郎兵衛尉盛嗣は、同じ志を持っているかもしれない」 と語ったという。 それから1ヶ月後の2月24日、忠光は、武蔵国六連(六浦)の海辺で斬首されている。 ※忠光の語った越中次郎兵衛尉盛嗣(平盛俊の子)は、のちに捕まり由比ヶ浜で斬首。 |
上総五郎兵尉忠光は、藤原忠清の子。 忠清は、伊勢国に基盤をおいた藤原秀郷流の伊藤氏の出身で、平氏の有力な家人。 1184年(元暦元年)、一ノ谷の戦い後、東国軍の主力が鎌倉に帰還すると、伊賀・伊勢で大規模な反乱を起こした(三日平氏の乱)。 その後逃亡していたが、壇ノ浦の戦い後に捕らえられ、1185年(文治元年)5月16日、六条河原で斬首されている。 |
赤間神宮にある14基の平家一門の墓には、藤原忠光の名もある。 『吾妻鏡』では壇ノ浦の戦い後も生きていた忠光だが・・・ 1204年(元久元年)に起こった三日平氏の乱の首謀者・若菜五郎盛高は忠光の子なのだという。 |
忠光の弟は悪七兵衛と呼ばれた平景清。 景清にも源頼朝の暗殺を企てたとする伝説があって、仮粧坂には景清が幽閉されたという牢跡が残されている。 |
永福寺は源頼朝が創建した三大寺院の一つ。 本堂の二階堂を中心に阿弥陀堂、薬師堂が並ぶ壮大な寺院だった。 跡地は国の指定史跡。 |
鎌倉市二階堂 鎌倉駅徒歩25分 バス停「大塔宮」から徒歩5分 |
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