源頼朝が伊豆国で北条政子と結婚した頃、京都では平清盛と後白河法皇の対立するようになっていました。 それが表面化したのが1177年(治承元年)6月1日に起こった「鹿ヶ谷事件」です。 清盛が突然、院勢力の中心だった西光らを平家討伐の謀議をしたとして逮捕した事件ですが、この事件をきっかけに延暦寺をはじめとする反平氏勢力の動きが活発となっていきました。 清盛は1179年(治承3年)11月14日、関白藤原基房をはじめとする公卿を解官し、天台座主には親平家派の明雲を立て、20日には、後白河法皇も鳥羽殿に幽閉するというクーデターを敢行します。 翌年1180年(治承4年)2月21日には、娘徳子の生んだ安徳天皇を即位させました。 |
以仁王は、後白河法皇の第三皇子。 安徳天皇の即位によって皇位継承の望みを断たれた以仁王は、1180年(治承4年)4月9日、全国の源氏に平家打倒の令旨を発し、自らも源頼政とともに挙兵しました。 しかし、翌5月初旬には、その計画が平家に露見したため、園城寺に匿ってもらった後、興福寺を頼って南都(奈良)へと向かいますが、宇治で平家軍に追いつかれ、5月26日、頼政は平等院に籠もった後に自刃、以仁王は南山城の加幡河原で討たれています(平等院の戦い)。 |
源頼政自刃の地 (宇治市・平等院) |
源頼政墓 (宇治市・平等院) |
延暦寺 |
園城寺 |
興福寺 |
高倉宮趾碑 |
一方、以仁王の発した令旨は、4月27日に北条館に届けられ、頼朝は水干に着替えて石清水八幡宮を遙拝した上で、謹んで開いて見たと伝えられています。 頼朝のもとに令旨を届けたのは叔父の源行家でした。 |
北条氏邸跡 (伊豆の国市) |
石清水八幡宮 (八幡市) |
北条政子と結婚 |
挙兵の決意 |
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