源頼朝の正室北条政子は、1157年(保元2年)、伊豆国の豪族北条時政の長女として誕生。 母は伊東祐親の娘ともいわれていますが定かではありません。 頼朝と政子が結婚したのは、長女大姫が1178年(治承2年)に誕生していると考えられることから、その前年の1177年(治承元年)頃ではないかと考えられています。 |
政子産湯の井戸 (伊豆の国市) |
北条氏邸跡 (伊豆の国市) |
※ | 結婚後の頼朝と政子は、守山の西麓にあったという北条時政邸に住んでいたものと思われます。 |
北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘? 〜政子と義時は曽我兄弟といとこ〜 |
『曽我物語』などでは・・・ 蛭ヶ小島に流されていた頼朝と政子は、時政が大番役で京に上っているときに恋仲となり、それを知った時政は、目代の山木兼隆に嫁がせようとしますが、政子は頼朝のもとへと走り、走湯権現(伊豆山神社)に匿ってもらったと伝えています。 ただ、山木兼隆は、1179年(治承3年)に罪人として伊豆国に流された人物ですので、史実ではないものと考えられます。 |
源頼朝が流されていたという蛭ヶ小島には、頼朝と政子が結婚できたのは伊豆山権現の加護によるものという伝説が伝えられています。 |
頼朝・政子腰掛石 (伊豆山神社) |
逢初橋 (伊豆山神社) |
『曽我物語』によると・・・ 時政に三人の娘がいることを知った頼朝。 長女は先妻との娘で21歳、二女と三女は今の妻との娘で19歳と17歳。 頼朝は二女に手紙を書きます(理由は今の妻の娘だったから)。 安達盛長がその手紙を預かりますが、二女と三女は悪女だという噂があったため、宛名を長女(政子)に書き替えて届けさせたのだとか。 二人は文通を重ね、そのうちに密かに会うようになったのだといいます。 |
夫婦石 (毘沙門堂) |
腰掛石 (三嶋大社) |
伊豆の国市の毘沙門堂参道にある夫婦石は、頼朝に挙兵を勧めた文覚に会いに行く際、頼朝と政子が休息したという石。 三嶋大社の腰掛石は、源氏再興の挙兵を祈願するため参詣した頼朝と政子が腰を掛けたという石。 |
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