1173年(承安3年)4月29日、後白河法皇に神護寺再興の勧進を強行した文覚が伊豆国に流されてきました。 文覚は源頼朝が流されていた蛭ヶ小島からそう遠くない奈古谷に庵を結んだと伝えられています。 文覚34歳、頼朝26歳のときでした。 |
伊豆に流されてきた文覚が草庵を結んだという地。 |
文覚が頼朝に挙兵を勧めたという地。 |
『平家物語』では・・・ 文覚は源頼朝に「謀反を起こして全国を従えるように」と促します。 一方、頼朝は 「今は朝敵となっている身だから、それが許されなければ謀反などできない」と答えます。 すると文覚は、 後白河法皇から院宣を給わり、頼朝のもとに持ってきました。 頼朝はこの院宣を掲げて挙兵したと伝えています。 |
高源寺は、頼朝と文覚が源氏再興の密議を行ったという寺。 |
※ | 文覚との出会いからおよそ7年後、頼朝は源氏再興の挙兵をしますが、文覚はその前に赦免されていますので、頼朝挙兵の際に伊豆にいたかどうかは不明です。 |
もとは遠藤盛遠(もりとお)という北面の武士だった文覚。 しかし、19歳のときに突然出家します。 その理由は・・・ 盛遠は、同僚の源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟御前に恋をしてしまいます。 盛遠に言い寄られて困り果てた袈裟御前は、夫の寝所を盛遠に教えて「夫を討つように」と促します。 盛遠は、渡を殺すため夜中屋敷に忍び込みますが、渡がいるはずの寝所にいたのは袈裟御前でした。 盛遠と夫との板挟みの中で悩んだ袈裟御前は、盛遠に殺される決断をして夫の寝所を教えたのだといいます。 誤って袈裟御前を殺してしまった盛遠は、出家し真言宗の僧になったということです。 |
出家後の文覚の荒行について『平家物語』には・・・ 「藪の中で、あぶ・蚊などの毒虫に刺されながら8日間過ごした」 「厳寒の中、那智の滝に打たれ息絶えてしまうが、天から降りてきた童子に助けられた」 と描かれています。 |
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