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成就院の「文覚上人荒行像」は、日本のロダンといわる荻原守衛の作品に影響を与えたというもの。 星野天知の『怪しき木像』で文覚に興味を持った荻原守衛は、成就院で文覚荒行像を見た。 その後、作り上げられたのが1908年 (明治41年) の第二回文展で入選した「文覚」なのだという。 横浜の証菩提寺と材木座の補陀洛寺にも同じ像が残されているが、証菩提寺のものが一番古く、成就院と補陀落寺の像は模刻されたものと考えられている。 |
※ | 上の写真は、成就院の本堂前に置かれている複製品。 |
文覚(もんがく)は、もとは武士で遠藤盛遠(えんどうもりとお)といった。 鎌倉に武家の政権を築いた源頼朝にも大きく関わった人物(参考:毘沙門堂(伊豆韮山))。 |
文覚は北面の武士として朝廷に仕えていたが、同僚の源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟御前に恋をしてしまう。 言い寄られて困った袈裟御前は「夫を亡きものとしてくれたら・・・」と文覚に告げる。 その言葉に文覚は、夫の渡を殺すために夜中屋敷に忍び込むが、誤って袈裟御前を殺してしまったという。 袈裟御前は、わざと夫のいるはずの寝所にいて文覚に殺される決断をしたのだと伝えられている。 その後、文覚は真言宗の僧となり修行を積んだ。 『平家物語』には文覚の荒行の様子が描かれている。 |
袈裟を殺してしまった盛遠は、出家して「文覚」と名乗り、袈裟の菩提を弔ったのだという。 そのために建てたのが恋塚寺。 |
文覚は、神護寺再興を後白河法皇に強訴して伊豆に流された。 そのときに、源頼朝と知り合ったのだという。 |
東寺 |
西寺跡 |
鎌倉市極楽寺1−1−5 江ノ電「極楽寺駅」より徒歩5分 |
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