『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝と弟の源義経の対立が決定的となった1185年(文治元年)10月、義経は後白河法皇に頼朝追討の院宣を迫ります。 一方、頼朝は、義経を討つため土佐房昌俊を刺客として差し向けますが失敗(参考:義経襲撃)。 後白河法皇はどうしたか・・・ |
10月18日、源行家と源義経に源頼朝追討の宣旨を発給しました。 京都に駐屯しているのは義経軍だけなので、もし宣旨を出さないで、乱暴をはたらかれたら、防ぐことができません。 その難から逃れるため宣旨を下し、頼朝には後で事情を説明することとしたのだとか。 行家と義経には、院庁の御下文(命令書)も出され、四国や九州に者は二人の命令に従うように書かれあったそうです。 さらに、義経と行家は、それぞれ九州の総地頭、四国の総地頭に任命されていたようです。 ただ、宣旨を出すか否かを議論する席で、右大臣の九条兼実は、一貫して鎌倉の頼朝に味方する発言をしていたようです。 後にそれを聞いた頼朝は大変喜んでいたそうです。 宣旨が発せられたことは、10月22日に鎌倉の頼朝に伝わります。 頼朝は24日に義経討伐軍を京都へ向け、翌日には自らも出陣します。 一方の義経は、思うように兵が集まらず、11月3日、200騎ほどで都落ちします。 その後、義経は西海へ赴きますが難破し、一行はちりぢりとなり、行方がわからなくなりました。 11月7日、義経は、伊予守と検非違使の職を解任されています。 この間、京には義経に入れ替わるようにして東国軍が入り、頼朝の怒りが伝えられると、11月11日、義経と行家を探し出すようにという院宣が畿内近国の国司らに出されました。 そして、11月15日、大蔵卿・高階泰経の使者が書状を携えて鎌倉に到着します。 その内容は、行家と義経に下した頼朝追討の宣旨についてでした。 「行家と義経の謀反の件については、天魔の仕業です。 宣旨を下さらなければ宮中で自殺すると言ってきたので、当面の難を回避するため、一度は勅命を出しました。 しかし、これは法皇さまの御意向ではないのです」 これに対する頼朝の返書には、 「行家と義経の謀反の件が天魔の仕業とは・・・ これは根拠もないことをおっしゃる! 天魔は仏法を守り、秩序・道理の分からない者を煩わすもの。 頼朝は数多くの朝敵を押さえしずめ、務めを忠実に奉仕している。 それが、たちまちのうちに反逆者にされ、然したる御意向もなく院宣を下すとは・・・。 行家と義経を召し取るまでの間、諸国は衰え、人民は滅亡してしまうかも・・・。 法皇さまは日本第一の大天狗と言うべきでしょう」 と書き、後白河法皇のこれまでの言動を批判したのだそうです。 ※ただ近年では、日本第一の大天狗は後白河法皇のことではなく、高階泰経のことという説があるようです。 ※高階泰経は、義経の望み(頼朝追討の宣旨の発給)を後白河法皇に取り次いだ人物。 11月26日、後白河法皇は高階泰経に蟄居を命令。 理由は泰経が義経の謀反に味方したため。 その後、伊豆国流罪となったのだとか。 |
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