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源義経と源行家の
謀反


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 1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼし、5月には捕えた平宗盛を護送して鎌倉に凱旋しようとした源義経だったが・・・

 源頼朝は、無断任官などの不行跡を理由に、義経が鎌倉に入ることを許さず、6月には、再び宗盛を護送して京都へ帰るよう命じた。

 京都に戻った義経は、叔父で頼朝から追討令が出されていた源行家に接近し、頼朝と対立することとなる。


 リンクボタン義経の不義を訴える景時の書状

 リンクボタン義経の無断任官

 リンクボタン義経の腰越状


鎌倉・満福寺
リンクボタン満福寺
(鎌倉市)
宗盛塚
リンクボタン宗盛塚
(野洲市)

 満福寺は、鎌倉入りを許されなかった義経が逗留していたと伝えられる寺。

 平宗盛は、京都へ戻る途中の近江国篠原宿で義経に処刑されている。









 『吾妻鏡』によると・・・

 1185年(文治元年)9月2日、頼朝は、京都にいる義経が行家を味方にして謀反を企てているという噂があることから、義経と行家の動静を探らせるため梶原景季を上洛させた。

 景季は京都に到着するとすぐに義経を訪ねたが、義経が病気を理由に対面を拒否したため、会うことはできなかった。

 対面できたのは、二日後のこと。

 灸のあとがあり、かなり憔悴しきった様子だったのだとか。

 景季が「行家を探し出して誅殺せよ」 という頼朝の命を伝えると、義経は、

 「たとえ強盗のような犯罪人であろうと直に取り調べを行いたいと思っている。

 まして、行家は他家の武士ではなく同じ六孫王の子孫。

 他の者と同じように扱うことはできず、家人だけを遣わしても降伏させることは難しい。

 したがって、病気が平癒したのちに計略をめぐらしましょう」

  と答えたのだという。

  10月6日、鎌倉に戻った景季から、その報告を聞いた頼朝は、義経が行家と同意し、仮病を使っていると判断。

 景季の父景時は、「初日に面会を断り、二日後に面会したということは・・・

 その間、食を絶って眠らずにいれば、憔悴しきった姿になるだろう。

 灸などは、いくらでも据えることができる。

 義経が行家と共謀していることは疑いない」

 と語っている。

 10月9日、頼朝は、土佐坊昌俊を刺客として京に送り込むことを決定。





〜頼朝追討の院宣を要求〜

 一方、義経は、10月11日と13日に後白河法皇の仙洞御所へ参って次のように奏聞。

 「源行家は、関東に対して謀反を企てています。

 その理由は、行家を誅殺するよう頼朝様が命令を出しているからで、「何のあやまちをもって罪もない叔父を誅殺しようとするのか」と怒ってのことです。

 ※行家には8月4日に追討令が出されている。

 義経は、頼朝様の行動を止めようとしましたが、相手にしてもらえません。

 また、義経は平家を滅ぼし、世の中を静かに落ち着かせる手柄をたてました。

 にもかかわらず、頼朝様には、恩賞を与えてもらえないどころか、所領の全てを没収されました。

 その上、義経をも誅殺する準備を進めているとのことです。

 その難を逃れるため、行家と同意しています。

 このうえは、頼朝追討の官符を賜りたく申し上げます。

 お許しがなければ、行家とともに自害いたします」

 という内容。





〜土佐坊昌俊の義経襲撃〜

 10月17日、頼朝の命により土佐坊昌俊が60騎で義経の屋敷を襲撃。

 その時、義経の郎党たちは西川の遊郭へ遊びに行っていて、義経邸に残っている部下は少なかったが、義経は佐藤忠信らを率いて門を開いて戦ったのだという。

 これに騒ぎを聞いて駆けつけた行家が戦いに加わったことにより、昌俊の襲撃は失敗に終わった。

 義経は、直ちに後白河法皇のもとへ参り、事の次第を申し上げたのだという。

 鞍馬山に逃げ込んだ昌俊は、捕らえられ、10月26日、六条河原で斬首されている。


 リンクボタン土佐坊昌俊の義経襲撃





〜頼朝追討の院宣〜

 土佐坊昌俊の襲撃があった翌日の18日、後白河法皇は義経と行家に「頼朝追討の院宣」を発した。

 その理由は、京都に駐屯しているのは義経軍だけなので、もし宣旨を出さないで、乱暴をはたらかれたら、防ぐことができない。

 その難から逃れるため宣旨を下し、頼朝には後で事情を説明することとしたのだとか・・・。





〜頼朝出陣〜

 10月22日、一条能保からの伝令により、後白河法皇が義経と行家に「頼朝追討の宣旨」を出したことを知った頼朝は、10月25日、自身の意を含ませた勇士達を京都へ向かわせた。

 勇者達には、尾張と美濃に着いたら、その国の者に守りを固くさせることを伝えさせるとともに、京都へ入ったら真っ先に義経と行家を誅殺するよう命じていたのだという。

 そして、10月29日、自らが出陣。

 11月1日、黄瀬川宿に到達した頼朝は、京都の情勢を仕入れるため、暫くここに逗留することとしている。





〜義経・行家が西国へ都落ち〜

 頼朝追討の院宣を賜った義経と行家だったが、それに従う者は少なく、頼朝が京都へ向けて鎌倉を発ったことを聞きくと、11月3日、西国(九州)へ向かうため都を落ちた。

 従っていたのは、平時実(平時忠の子)・一条能成(常盤御前の子・義経の異父弟)・源有綱(源頼政の孫)・堀景光・佐藤忠信・伊勢能盛・片岡弘経・弁慶らの200騎余りだったのだという。

 11月6日に摂津国の大物浦から船出したが、大風により難破。

 義経一行は、 散り散りとなり、難破後、義経のもとにいたのは、源有綱・堀景光・弁慶と妾の静御前の4人のみだった。

 義経は、四天王寺に辿り着いた後、吉野山に逃亡し、その後の行方は不明。

 行家の行方も不明。

 11月8日、義経と行家が都を落ちたことを知った頼朝は、黄瀬川宿から鎌倉へ帰っている。


吉野山
リンクボタン吉野山





〜義経に同行していた平時実〜

 平時実は、平時忠の子。
 
 二人は壇ノ浦の戦いで捕えられた後、それぞれ能登国と周防国への流罪が決定していたが、義経は二人を京都に置いたままにしていた。

 9月に義経に面会した梶原景季が流罪となった二人について語ると、時忠は配流地の能登へ赴いたが、時実は配流地に赴くことなく、11月3日には義経と都落ちしている。

 リンクボタン平時忠・時実父子と源義経

 リンクボタン源義経の側室・蕨姫





〜正妻郷御前の父河越重頼誅殺〜

 11月12日、頼朝は、義経の舅という理由から河越重頼の領地を没収し、嫡男の重房とともに誅殺している。

 リンクボタン義経の正妻・郷御前





〜守護・地頭の設置〜

 11月25日、頼朝は北条時政を入洛させ、11月29日には、朝廷に「義経・行家の捜索・逮捕」、「守護・地頭の設置」、「兵粮米の徴収」を認めさせた(文治の勅許)。

 リンクボタン義経逃亡と守護・地頭の設置





〜行家の最後〜

 その後、義経と行家の動向は、なかなかつかめなかったが、1186年(文治2年)5月25日、鎌倉に一条能保・北条時定・常陸坊昌明の伝令が、行家の首を持って到着。

 伝令の報告によると・・・

 行家が和泉国や河内国で横行しているという噂があったことから、捜索していたところ・・・

 5月12日に和泉国近木郷の在庁官人の日向権守清実の所にいることが判明。

 行家は、討手が来たことを知ると、裏山に逃げ、民家の二階に籠ったが、時定と昌明に捕えられ、誅殺された。

 この時、行家の子光家も誅殺されている。


一条能保は頼朝の姉妹坊門姫の夫。

北条時政の代官として京都警備にあたっていた。

常陸坊昌明は比叡山の僧で、時政のもとで京都警備にあたっていた。





〜義経は・・・〜

 義経は、吉野山に逃亡した後、1186年(文治2年)の5月から閏7月頃にかけて、比叡山の僧兵:俊章・承意・仲教らの庇護を受け、興福寺の聖弘にも匿ってもらっていたのだという。

 1187年(文治3年)の春ごろには、奥州へ下り、平泉藤原秀衡に匿ってもらっていたが、その年の10月29日、秀衡が亡くなり、1189年(文治5年)閏4月30日、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に攻められ、衣川館で自刃した。


延暦寺
リンクボタン比叡山
興福寺
リンクボタン興福寺


リンクボタン日本第一の大天狗:後白河法皇

リンクボタン平時忠・時実父子と源義経

リンクボタン源義経の側室・蕨姫

リンクボタン源義経を匿った比叡山の僧兵

リンクボタン源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘









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