鎌倉手帳(寺社散策)

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満 福 寺
=義経・弁慶ゆかりの寺=

編集:yoritomo-japan.com








満福寺


 腰越の満福寺(真言宗大覚寺派)は、744年(天平16年)、行基による開創。

 源義経が兄源頼朝の許しを得るために「腰越状」を書いた寺として知られる。

 1185年(元暦2年)、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、平家の総大将平宗盛を護送し、鎌倉に凱旋しようとしたが、兄頼朝は鎌倉に入ることを許さなかった。

 義経は腰越の満福寺に留まり、大江広元を通じて頼朝の許しを得ようとするが、許されることはなく再び京へ戻ることになる。

 その後、頼朝との仲はさらに悪化し、ついには義経捕縛命令が出される。

 義経は逃亡の果てに奥州平泉藤原秀衡を頼るが、秀衡亡き後、頼朝を恐れた秀衡の子泰衡に攻められ自刃した(1189年(文治5年)4月30日)。


開山:行基
本尊:薬師三尊


リンクボタン鎌倉の真言宗の寺



義経と弁慶
欄間の彫刻









〜腰越状の下書き〜

 満福寺には、弁慶の筆跡とされる「腰越状」の下書きと伝えられるものがある。

 弁慶が書いた書状に、義経自らが筆をとって「敵のために命を亡はんことを顧みず」という文字を付け加えたため、下書きとして残されたものだといわれている。


義経と弁慶
リンクボタン腰越状
(義経と弁慶)


弁慶腰掛石
弁慶の腰掛石


弁慶手玉石
弁慶の手玉石


義経手洗い井戸
義経手洗い井戸


硯の池
硯の池





〜鳴かなくなった満福寺のコウロギ〜

 弁慶が腰越状を下書きするために墨をすっていると、池のほとりでコウロギが鳴いていた。

 弁慶が「やめよ」と一喝すると静まったといわれる。

 以来、満福寺のコウロギは鳴かないそうである。


襖絵


 本堂には、義経と静御前の別れの場面や弁慶との最期の場面を描いた三十二面の鎌倉彫の襖絵。


襖絵





〜義経の笛〜

笛供養
笛供養


 義経は牛若と呼ばれた幼少期より、新羅三郎義光伝来の「薄墨」という横笛を愛用していたのだという。

 京都の五条大橋弁慶と出会った時に吹いていたのも「薄墨」だったのだとか。

 満福寺では2002年(平成14年)から「笛供養」が営まれている。



2023年の笛供養

10月?日(土)
14:00から

雅楽の演奏演舞やフラダンスなどの奉納上演など。



(参考)
久能山東照宮
リンクボタン久能山
(静岡市)

 徳川家康が埋葬された久能山の伝承によると・・・

 源義朝常盤御前→義経と伝えられた「薄墨」は久能寺に寄進されたのだという。


浄瑠璃物語

 義経は浄瑠璃姫に久能寺に納めるよう頼んでいたのだとか・・・









義経まつり
リンクボタン義経まつり
義経と弁慶
リンクボタン義経と弁慶
天王祭の人形)


 満福寺は、聖武天皇の命によって疫病追放を命じられた行基が草庵を結んだのがその始まりだと伝えられている。

 しかし、この寺を有名にしているのは、鎌倉に入ることができない義経がしばらく滞在したということ。

 そういった意味から「弁慶寺」とも呼ばれていた。

 「判官贔屓(はんがんびいき)という言葉を生んだ悲運の英雄義経の人気は未だ衰えず、4月の「鎌倉まつり」に併せて行われる「義経まつり」には多くの観光客も訪れて賑わう。





〜軍事の天才:源義経〜
(義経が活躍した合戦)

宇治川の戦い 一ノ谷の戦い
屋島の戦い 壇ノ浦の戦い





源義経

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源義経とあさひ天女

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歴史めぐり源頼朝




満福寺と江ノ電
満福寺

鎌倉市腰越2−4−8
0467(31)3612

江ノ電「腰越駅」より徒歩5分

江ノ電で鎌倉



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