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『吾妻鏡』によると・・・ 1183年(寿永2年)7月25日、平家一門が都落ちする際、平清経は後白河法皇の法住寺殿から「吠丸」(ほえまる)と「鵜丸」(うのまる)という剣を奪っていったのだという。 平清経は、平清盛の嫡男重盛の三男で、都落ちした年の10月、豊前国柳浦で入水自殺したと伝えられている。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 「吠丸」(ほえまる)は、源義朝が後白河法皇に献上した剣で、鞘には鳩の模様が施されていた。 壇ノ浦で平家が滅亡した後、その剣を大江公朝が見つけ、後白河法皇に献上。 それを聞いた源頼朝は、1185年(文治元年)10月19日、公朝に感謝の書状を出している。 『保元物語』によると・・・ 「鵜丸」(うのまる)は、白河院、鳥羽院、崇徳院と伝えられた剣。 白河院が神泉苑での管弦の催しの後で鵜飼いを見ていた時のこと。 特に優れているという鵜が、二三尺ほどの物を「水中に潜っては何度も落とすこと」を繰り返し、四五度目にやっと捕えた。 鵜が捕まえたのは長覆輪(ながふくりん)の太刀だった。 白河院は 「霊剣に違いない。天下の珍宝である」 として、その太刀に「鵜丸」と名付けた。 その後の1156年(保元元年)、鳥羽院、崇徳院と伝えられた剣は、源為義に与えられたが、間もなく為義が保元の乱に敗れたため朝廷に返されたのだという。 『吾妻鏡』によると・・・ 「鵜丸」は、壇ノ浦の戦い後、鎮西で戦後処理を行っていた源範頼が探し出し、1185年(文治元年)9月27日に後白河法皇へ献上している。 |
『平家物語』によると・・・ 「吠丸」は、源満仲が作らせたが二つ剣のうちの一つ。 罪人を切らせたところ、膝まで切れたことから、初めは「膝丸」(ひざまる)と名付けられた。 「膝丸」は、源頼光が土蜘蛛を退治して以降「蜘蛛切」(くもきり)と改められ、源為義の頃には夜に蛇の泣くような声で吠えたので「吠丸」と名を改められる。 その後、為義から熊野別当行範へ、行範から熊野権現へ、熊野別当湛増から源義経へ、義経から箱根権現へ、箱根別当行実から曽我時致へと渡り、曽我兄弟の仇討ち事件後、源頼朝が所持したのだとか。 『吾妻鏡』の「吠丸」と『平家物語』の「吠丸」(膝丸)は同じ太刀なのだろうか・・・? |
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