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御影堂の右手前の石棺は、法然が亡くなってから約500年後に東山天皇から贈られたもの。 |
法然は、1212年(建暦2年)、東山の大谷の地で入滅(80歳)。 知恩院には廟堂が建てられ遺骸が奉安されたが、1227年(嘉禄3年)、比叡山の僧兵による浄土宗への弾圧が起こると、弟子たちは遺骸を嵯峨の二尊院へ遷し、さらに太秦の西光院へと遷した。 遺骨移送には、宇津宮頼綱(蓮生)や六波羅の武士が警固にあたっている。 翌1228年(安貞2年)正月20日、石棺が解き放たれ、光明が南西の粟生野を照らしたことから、十七回忌にあたる同月25日、遺骸を粟生野に遷して荼毘に付したのだという。 |
光明寺は熊谷直実が建てた念仏三昧院を始まりとする寺院。 法然の遺骸が荼毘に付されたことにより、光明寺と改められた。 |
長岡京市粟生西条ノ内26−1 JR「長岡京」駅から阪急バス「20,22系統」 「旭が丘ホーム前」下車。 阪急「長岡天神」駅から阪急バス「22系統」 「旭が丘ホーム前」下車 |
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