|
一遍は1239年(延応元年)、伊予国の豪族別府氏の子として誕生したが、本家の河内氏が1221年(承久3年)の承久の乱で京方についたため、かつては有力豪族だった家も没落していた。 10歳のとき、母の死を機に出家。 1263年(弘長3年)、父の死を機に一時還俗して伊予に戻るが、1271年(文永8年)に再び出家。 全国を遊行してまわり、民を「賦算(ふさん)」(「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれた札を配ること)と「踊り念仏」で極楽浄土に導いた。 |
「賦算」は、六十万人の人々に配ることを目標としていたが、実際に配れたのは、二十五万一千人余だったといわれる。 |
「躍り念仏」は、尊敬する空也に倣ったものといわれている。 六波羅蜜寺の空也上人立像は、運慶の四男康勝の作(重要文化財)。 念仏を唱える空也の口から吐き出された六体の阿弥陀は、「南無阿弥陀仏」の六文字を表現している。 |
1282年(弘安5年)、鎌倉での布教を試みようとした一遍だったが、鎌倉幕府八代執権・北条時宗に阻止されたため、片瀬に入って約4ヶ月間の布教を行ったのだという。 一遍上人地蔵堂跡は、一遍が念仏を行った「片瀬の浜の地蔵堂」があった所とされている。 |
全国を遊行した一遍は、1289年(正応2年)8月23日、摂津国兵庫津の観音堂(真光寺)で遷化。 「遺体を野に捨てて獣に施せ」と遺言していたが、在地の信者により松の根元で荼毘に付され、廟が設けられたのだと伝えられている。 |
神奈川県藤沢市西富1−8−1 0466-22-2063 藤沢駅北口より徒歩15分 (東海道線・小田急線・江ノ電) |
|