松平家康に敵対した桜井松平家と大草松平家 |
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1563年(永禄6年)に起こった三河一向一揆では、松平家康(徳川家康)の家臣の多くが一揆方に加担したが、反松平勢力の吉良氏・荒川氏、松平宗家に敵対していた桜井松平家・大草松平家も挙兵している。 桜井松平家と大草松平家が家康に敵対した理由は、過去の岡崎城をめぐる松平一族の争いに関係があるらしい・・・ |
桜井松平家は、安祥松平家(松平宗家)二代当主・松平長親の子・信定を祖とし、三河国碧海郡の桜井城が居城。 信定は、松平宗家三代当主で甥の松平清康(家康の祖父)が暗殺されると、織田信長の後ろ盾で岡崎城を占拠し、清康の嫡男・松平広忠(家康の父)を追放するが、信定を推戴する者は少なく、岡崎城を手放すことになったのだという。 しかし、その後も桜井松平家は松平宗家に対する敵対の姿勢は変えず、三河一向一揆では三代当主の松平家次が一揆方に加担した。 家次は、一揆が起こった永禄6年7月に死去しているともいわれるが、翌年2月に累代の一族として許されたという説もある。 大草松平家は、もとは岡崎城を居城とし岡崎松平家と呼ばれていたが、三代当主の昌安が松平宗家の松平清康(家康の祖父)に岡崎城を奪われ、三河国額田郡大草郷に退去することに。 三河一向一揆では、四代当主の松平昌久が吉良義昭の東条城に籠城したが、東条城が落とされると姿をくらませたのだという。 |
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