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光明寺にある木曽氏の墓は、信濃国木曽谷の木曽義昌が、武田勝頼に人質として預けていた70歳の母・13際の嫡男千太郎・17歳の長女のもの。 木曽義昌は、武田信玄の三女真竜院(真理姫)を正室としていたが・・・ 信玄の跡を継いだ勝頼が1575年(天正3年)の長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に大敗して衰えてくると、1582年(天正10年)2月、信長の調略にのって勝頼から離反。 そのため、義昌が差し出していた人質は処刑され、後年、光明寺に墓が建てられたのだという。 |
新府城は、武田勝頼が織田・徳川連合軍の侵攻に対抗するため1581年(天正9年)築いた城。 木曽義昌は、勝頼が甲府の躑躅ヶ崎館から新府城に移った時に人質を差し出したのだという。 1582年(天正10年)2月6日、義昌が織田方に付いたことを知った勝頼は木曽攻めを始めるが、2月16日、信長の加勢を受けた義昌に鳥居峠で敗北。 この戦いが織田・徳川連合軍の甲州征伐のきっかけとなった。 3月1日、勝頼は人質を処刑。 3月2日、織田・徳川連合軍の甲斐侵攻が本格化すると、勝頼は3月3日に新府城を焼き払い、郡内の岩殿城を目指すが・・・ 城主の小山田信茂の裏切りに遭い、天目山の麓の田野(景徳院)で自害。 武田氏滅亡後、義昌は織田信長から木曽谷を安堵され、筑摩郡と安曇郡を与えられている。 義昌は、木曽義仲の嫡流に連なるともいわれるが定かではない。 |
山梨県韮崎市藤井町駒井654 JR中央本線新府駅から徒歩約20分 |
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