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相模国松田郷は、平安末期の武将・波多野義通が治めた地で、源頼朝の異母兄・朝長が生まれ育った地。 朝長は、源義朝と義通と妹との間に生まれた子で、寒田神社の東南にあったという松田亭で13年間を過ごしたのだという。 松田城は、義通の子義常が築いたのが始まり。 義常は1180年(治承4年)の頼朝の挙兵に応じず、同年10月17日、追手を差し向けられ松田郷で自害するが、子の有常は大庭景義に預けられた後、許されて松田氏を名乗った。 『吾妻鏡』によれば、1188年(文治4年)4月3日、鶴岡八幡宮臨時祭で催された流鏑馬で見事な技量をみせた有常は、頼朝の賞賛を受けて、亡き父の所領の中でも随一だった松田郷を与えられたのだという。 その後、松田氏は波多野氏一族を統合する惣領家として存在し、戦国期には城郭を構え、北条早雲が関東に進出してくると後北条氏の家臣となり、代々家老を務めて十代松田憲秀のとき全盛を迎えた。 しかし、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐によって小田原城が開城し、憲秀は切腹。 小田原城開城後、憲秀の次男直秀は前田利家に召し抱えられ、弟康定の子康長は徳川家康に召し抱えられたのだという。 |
寒田神社 |
寄神社 |
松田町の寒田神社は、源頼朝が信仰した信仰した延喜式内相模十三社の一つ。 寄神社は、源頼朝が北条政子の安産祈願の祈祷を命じた神社。 |
神奈川県足柄上郡松田町松田庶子 JR御殿場線「松田」駅、小田急線「新松田駅」から徒歩30分 |
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