|
寒田神社は、古風土記残本や新編風土記稿によると315年(仁徳天皇3年)の創建といわれる古社。 927年(延長5年)の延喜式神名簿には、「相模十三社の内、足上郡一座小寒田の神社」と明記されているという。 古代、箱根越えの旅人が立ち寄り、旅の安全を祈願したといい、日本武尊が東征の折に立ち寄ったと伝えられている。 御神宝に、弥生時代後期の作といわれる白木の椀大小一組が伝えられている。 1193年(建久4年)、源頼朝は、しばしば立ち寄った松田亭より玄米十石の奉献したという。 1626年(寛永3年)には、徳川家光より朱印地150石が寄進されたが、1654年(承応3年)の酒匂川の氾濫によって、朱印地・社殿のほとんどが流出した。 現在の本殿は、1868年(慶応4年)に再建されたもの。 |
倭健命 (やまとたけるのみこと) 弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと) 菅原道真 (すがわらみちざね) 誉田別命 (ほんだわけのみこと) |
927年(延長5年)、醍醐天皇の時代に編纂され、967年(康保4年)、冷泉天皇の時代に施行された法典。 藤原時平が編纂に着手したのが905年(延喜5年)であったことから「延喜式」と呼ばれている。 延喜式は五十巻から成り、巻一から巻十までが神祇・祭祇に関する規定で、巻九と巻十が神名帳となり、ここに登載されている神社を「延喜式内社」と呼んでいる。 |
『吾妻鏡』によると、松田亭は源頼朝の兄朝長が生まれ育った屋敷で、1180年(治承4年)10月18日、平家軍を迎え撃つため軍を進めていた頼朝は、その途中で中村宗平に松田亭の修理を命じ、その後、富士川の戦いで平家軍を敗走させた頼朝は、10月25日に修理させていた松田亭に入っている。 松田亭がどこにあったのかは不明だが、明治初期の地誌編纂事業で作業が進められていた『皇国地誌』には、寒田神社の東南にある陸田が旧地とされていたようである。 |
寒田神社の例大祭は7月31日。 遣弊使の参向があり、「豊栄の舞」が奉納され、神輿は、酒匂川で「禊(みそぎ)」を行ってから町内を渡御する。 祭礼の時の大名行列は、松田町の無形文化財に指定され、戦後箱根にも伝えれらている。 |
神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1767 JR御殿場線「松田」駅から徒歩5分 |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|