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真鶴町の児子神社は、延喜年間の創建と伝えられる古社。 1180年(治承4年)、石橋山の戦いで平氏に敗れた源頼朝が船出したという岩海岸を見下ろす高台に建てられた社。 |
惟喬親王之御子神 (これたかしんのうのみこがみ) |
源頼朝も使用した本小松石〜頼朝船出の地:真鶴〜 |
1180年(治承4年)8月28日、土肥実平の手引きによって岩海岸にたどり着いた源頼朝一行が安房へ向けて船出しようとしたときのこと。 実平の子遠平が「子の万寿に会ってから・・・」と言い出した。 万寿の母は、頼朝に敵対した伊東祐親の次女・万劫。 内通を疑った実平は、遠平を下船させたのだという。 その後、遠平は和田義盛の用意した船で頼朝一行を追うが、子の万寿には会う事はできなかった。 遠平の船が出た後に駆けつけた万寿は、父方は源氏に、母方は平氏に別れてしまったことを嘆き、海に身を投げたのだという。 それを憐れんだ村人は万寿を児子神社に祀ったのだと伝えられている。 |
児子神社の近くにある瀧門寺の五層塔は、万寿を葬った塔なのだとか・・・。 |
戦国時代に後北条氏の居城となった小田原城は、遠平が早川荘に築いた小早川城に始まるのだという。 |
城願寺七騎堂 (湯河原町) |
源頼朝上陸地 (鋸南町) |
土肥実平の菩提寺城願寺の七騎堂には、頼朝主従七騎の像が祀られている。 岩海岸から船出した頼朝が上陸したのは、安房国の平北群猟島なのだという。 |
真鶴町と合併するまでは、岩村と呼ばれていた岩地区。 「祝村」(いわいむら)を呼ばれていたものが「岩村」(いわむら)と呼ばれるようになったのだとか。 「祝村」と呼ばれた由来は・・・ |
○ | 平氏の追跡から免れた頼朝が喜んで「祝村」と名付けた。 |
○ | 船出した頼朝が、戦に敗けたことがなかったことから「祝い村」と呼ばれるようになった。 |
などの話が残されている。 |
貴船神社は、源頼朝が必勝祈願の護摩を焚いたと伝えられる社。 |
神奈川県足柄下郡真鶴町岩653 JR真鶴駅から徒歩15分 |
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