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海蔵寺の東の谷戸は、清凉寺ヶ谷と呼ばれている。 京都嵯峨の清凉寺の釈迦像(三国伝来の釈迦如来)を模した像が安置された「新清凉寺釈迦堂」があった場所とされ、泉涌寺の末寺だったと伝えられている。 1262年(弘長2年)、鎌倉に下向してきた西大寺流律宗の叡尊は、新清凉寺釈迦堂に滞在した。 『関東往還記』(かんとうおうがんき)によれば、叡尊は金沢の称名寺を建立した金沢(北条)実時の要請によって鎌倉に下向。 新清凉寺釈迦堂で行われた叡尊の説法には、実時や極楽寺開基の北条重時の娘(北条時頼夫人)などが聴聞したという。 滞在中、最明寺に北条時頼を訪れて面会をしている。 新清凉寺釈迦堂は、江戸時代までは存続していたと考えられているが、いつ廃寺となったか等の詳細は不明。 |
新清凉寺釈迦堂の本尊「清凉寺式釈迦如来立像」は、現在、極楽寺の本尊となっているものであるとか、東京目黒の大寺円に伝わるものであるなどといわれているが定かではない(参考:清凉寺式釈迦如来立像)。 大寺円に伝わる「清凉寺式釈迦如来立像」は、杉本寺に安置されていたものと判明しており、その像は、北条泰時が父義時の菩提を弔うために建てた釈迦堂の本尊だったという説もある。 |
「清凉寺式釈迦如来像」は、京都の清凉寺に伝わる「三国伝来の釈迦如来」を模刻したもの。 「三国伝来の釈迦如来」は、東大寺の僧「然(ちょうねん)が宋より持ち帰った。 |
叡尊の鎌倉下向によって、鎌倉での西大寺流律宗の基盤が固められ、弟子の忍性は、1267年(文永4年)、開山として極楽寺に入山した。 浄光明寺の奥にあったとされる多宝寺も西大寺流律宗の寺とされ、忍性が開山となったと伝えられている。 |
称名寺 |
浄光明寺 |
東林寺 (廃寺) |
多宝寺 (廃寺) |
極楽寺 (忍性墓) |
※ | 浄光明寺は、真言宗泉涌寺派の寺院。 かつては、浄土・華厳・真言・律の四宗兼学の寺院だった。 |
※ | 清凉寺ヶ谷の東側、現在、JR横須賀線が敷かれている谷は法泉ヶ谷と呼ばれ、かつては、臨済宗の法泉寺があった。 |
飢饉・天災と極楽寺・忍性の救済事業 極楽寺の忍性が掲げた十の大願 極楽寺の千服茶臼〜忍性と茶〜 |
清凉寺ヶ谷を上っていくと、葛原ヶ岡・大仏ハイキングコースへと通じている。 |
武蔵大路は、鶴岡八幡宮の赤橋(太鼓橋)から亀ヶ谷、仮粧坂を経て武蔵に向かう道だった。 |
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