|
古代インドのコーシャンビー国の優填王(うてんおう)は、釈尊が不在で会うことができなかったことを悲しんで、栴檀(せんだん)の木で釈尊の等身の像を造らせた。 のちにこの像が中国に伝えられ、東大寺の僧「然(ちょうねん)が入宋した折には、台州の開元寺に置かれていたのだという。 「然は、その像を模刻させて日本に持ち帰り、京都の愛宕山麓に安置しようとしたが果たせず、「然の没後、弟子の盛算(じょうさん)が清凉寺を建立して安置した。 インド、中国、日本と渡ってきたため、清凉寺の釈迦如来立像は「三国伝来の釈迦如来」と呼ばれている。 |
極楽寺の本尊「木造釈迦如来立像」は、台座墨書に永仁五年(1297年)の銘があるもので、「清凉寺式釈迦如来立像」の忠実な模造のひとつ(国重文)。 転法輪殿(収蔵庫)に安置され秘仏とされている。 「清凉寺式釈迦如来立像」は、平安から鎌倉時代にかけて多く造られた。 鎌倉では極楽寺の他、三代執権北条泰時が父義時の供養のために建てた「釈迦堂」の本尊が「清凉寺式釈迦如来立像」だったと伝えられている。 現在その像は、東京目黒の大円寺に本尊として安置されている(国重文)。 横浜の称名寺には、徳治3年(1308年)銘のある「清凉寺式釈迦如来」が伝えられている。 |
「清凉寺式釈迦如来立像」は、平安から鎌倉時代にかけて多く造られた。 鎌倉では極楽寺の他、三代執権北条泰時が父義時の供養のために建てた「釈迦堂」の本尊が「清凉寺式釈迦如来立像」だったと伝えられている。 現在その像は、東京目黒の大円寺に本尊として安置されている(国重文)。 横浜の称名寺には、徳治3年(1308年)銘のある「清凉寺式釈迦如来」が伝えられている(金沢文庫蔵)。 |
※ | 極楽寺の清凉寺式釈迦如来立像は、扇ヶ谷にあった新清凉寺釈迦堂の本尊であったという説もある。 新清凉寺釈迦堂には、鎌倉に下向した叡尊が滞在している。 |
※ | 三蔵法師として知られる玄奘もコーシャンビー国で釈迦如来像を拝し、中国にその模刻を持ち帰ったとされている。 それが「然が拝した像であるかどうかはわからない。 |
清凉寺は、紫式部の『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとなったという源融(みなもとのとおる)の別荘「栖霞観」跡に建てられた棲霞寺を前身としている。 のちに棲霞寺の境内に「然が宋より持ち帰った釈迦如来を安置する清凉寺が建立された。 |
※ | 大町の安養院の本尊千手観音の胎内に納められているという田代観音は、「然が宋より持ち帰った像であると伝えられている。 |
極楽寺では、毎年4月7・8日の間に転法輪殿の本尊「清凉寺式釈迦如来立像」が特別開扉される。 吉祥院内も公開され、叡尊像や忍性像の拝観もできる。 花まつりや忍性の五輪塔の特別公開も。 |
極楽寺は真言律宗の寺院。 開山の忍性は社会事業に力を注ぎ「医王如来」と崇められた高僧。 |
鎌倉市極楽寺3−6−7 0467(22)3402 江ノ電「極楽寺駅」からすぐ |
大きい地図を見るには・・・ 右上のフルスクリーンをクリック。 |
|