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荏柄天神社の下の地には、和田義盛の甥・胤長邸があった。 |
1213年(建暦3年)2月、信濃の泉親衡が二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁立し、北条義時を討とうとする企てが露見。 それに加担していた和田胤長は、捕われて奥州流罪となった。 和田義盛は、一族98人を引き連れ、幕府に許してくれうよう要求したが聞き入らられず、縛りあげられた胤長は一族の目の前で流罪を言い渡されたのだという。 その後、義盛は将軍源実朝に願い、胤長邸を貰い受けたが、北条義時に横取りされてしまう。 これが和田合戦の原因となった。 1213年(建暦3年)5月2日、義盛が挙兵。 義盛軍は、実朝が法華堂に避難するほどに幕府を攻め立てたが、次第に北条方の兵が増し、翌5月3日、由比ヶ浜で滅亡。 奥州へ流されていた胤長は、5月9日に処刑されている。 |
胤長が流罪となると、6歳の娘はその悲しみから病気となり、回復の見込みもない状態になってしまう。 胤長に似ていると言われていた和田朝盛が「父が帰ってきた」と言って訪れると、一瞬これを見たが・・・ 目を閉じて亡くなってしまったのだという。 |
泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 『吾妻鏡』が伝える和田合戦 |
和田塚は、1213年(建暦3年)に起こった和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられる。 |
来福寺 (三浦市) |
浄楽寺 (横須賀市) |
和田合戦〜北条義時の徴発と三浦義村の裏切り〜(okadoのブログ) |
荏柄天神社は、源頼朝も大倉幕府の鬼門の守護神として尊崇した神社。 京都の「北野天満宮」、福岡の「太宰府天満宮」とともに日本三天神の一つに数えられている。 |
鎌倉市二階堂74 0467−25−1772 鎌倉駅から「大塔宮」行バス「天神前」下車 |
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