鶴岡八幡宮大石段と源実朝暗殺 〜その時、北条義時は現場にいた!〜 |
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1219年(建保7年)1月27日、三代将軍源実朝は鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の後、甥の公暁に暗殺されました。 その場所が、大石段の13段目(下から数えて)という噂があるようです。 13段目は、公暁が隠れていたという伝説が残された大銀杏の横ですが・・・ |
『吾妻鏡』は・・・ 「神拝を終えた実朝が退出したところを公暁が石段の際(きわ)で殺害した」 と伝えています。 武田信光を先頭に髄兵らが乗馬で宮中に駆け付けたようですが、すでに公暁の姿はなかったようです。 さらに・・・ 上宮の砌(みぎり)で公暁が「父の敵を討った」と叫んだのを聞いた者がいたと伝えています。 ということは、殺害現場は楼門を出たすぐの所ということなのかもしれません。 一方、慈円の『愚管抄』は石段を下りたところを襲われたと伝えているようです。 また、実朝は護衛責任者の北条義時を中門に待機させていたと伝えています。 |
中門は舞殿の前にあったと考えられます。 『愚管抄』によると、義時は中門に留められ、中門前の鳥居の外にいた一千騎の髄兵は事件に気づかなかったのだといいます。 慈円は「実朝は用心を怠った」と伝えているようです。 |
『吾妻鏡』によると、義時は体調不良を理由に太刀持ち役を源仲章に代わってもらい自館へ帰ったということになっていますが・・・ 『愚管抄』によると、義時は中門で待機していたということですので、現場にいたということになります。 「太刀持ち」というのは、主君の太刀を持って近侍する役。 つまり実朝警護の責任者ですので、『愚管抄』が伝えていることの方が信憑性があるのかもしれません。 |
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