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源仲章(みなもとのなかあきら)は、宇多源氏・源光遠の子。 後鳥羽上皇に仕えるとともに鎌倉幕府にも御家人として仕えた。 『吾妻鏡』によると、1203年(建仁3年)7月16日には、在京の御家人を動員して東山延年寺で修行中の阿野全成の子頼禅を誅殺している。 この年の9月、鎌倉では比企能員の変が起こり、二代将軍源頼家が失脚し、三代将軍に源実朝が就任。 頼家は修禅寺に幽閉された後、翌年7月に暗殺された。 この後、仲章は将軍実朝の侍読(じとう・教育係)として鎌倉に下向するが、いつ頃だったのかは不明。 『吾妻鏡』には、1204年(建仁4年)正月12日の読書始めに侍読として登場し、 「特別な文章があるわけでもなく、才名の誉はないが、好んで書籍を集めて、百家九流に通じている」 と評されている。 一方で、しばしば上洛し、後鳥羽上皇の臣下としての地位も保ち続けた。 そのため、密偵のような役割を果たしていたのではないかという説がある。 実朝からは気に入られていたらしく、『吾妻鏡』によると1218年(建保6年)2月18日、幕府の推薦で侍読としての昇殿を勅許されている。 ただ、大江広元や北条義時をはじめとする御家人からすると面倒な存在であったらしい。 1219年(建保7年)正月27日、鶴岡八幡宮で行われた実朝の右大臣拝賀の式後、実朝とともに実朝の甥の公暁に暗殺された。 『吾妻鏡』によると、仲章がつとめていた太刀持ち役は、本来、北条義時のつとめだったが、義時が体調不良で帰宅したため仲章が代わったのだという。 慈円の『愚管抄』は、仲章は義時と間違えられたと伝えている。 |
鶴岡八幡宮大石段と源実朝暗殺〜その時、北条義時は現場にいた!〜 |
『吾妻鏡』では、義時は体調不良を理由に太刀持ち役を源仲章に代わってもらい自館へ帰ったということになっているが・・・ 慈円の『愚管抄』は、実朝の命により中門で待機していたと伝えている。 |
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