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三浦義村は、1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると父義澄とともに従い、源氏再興に尽力した武将。 母は、伊東祐親の娘。 頼朝の亡き後、北条氏と組んで有力御家人を次々と滅ぼし、幕府での地位を向上させ、1219年(建保7年)に起こった源実朝の暗殺事件では、その黒幕だったのではないかともいわれている。 1239年(延応元年)12月5日に亡くなり、自らが創建した福寿寺の塔頭南向院に葬られたのだという。 |
三浦義村墓は、1923年(大正12年)の関東大震災で崖下の海に落ちてしまい、破損した残石を積み上げたものが旧墓として残されているものだという。 その後、有志によって新たな墓塔が建てられた。 |
梶原景時は結城朝光を讒言したことで鎌倉を追放され、駿河国で討たれた。 讒言された朝光がまず相談したのが義村だった。 |
畠山重忠は、北条時政に騙され滅ぼされた。 重忠の子重保は、由比ヶ浜で義村によって討たれている。 |
北条義時の徴発によって挙兵した和田義盛が滅ぼされた。 義盛は三浦一族。 義村は義盛に起請文まで書いて味方することを約束していたが裏切っている。 |
源実朝は、甥の公暁によって暗殺された。 公暁は、実朝の首を持って三浦邸へ向かうが、義村が差し向けた長尾定景によって討たれている。 |
後鳥羽上皇の近臣だった義村の弟胤義は、義村に決起をうながす書状を送るが、義村はそれを幕府に知らせたという。 |
北条義時が亡くなると、義時の後妻伊賀氏と義村は、政村を執権に据えようとするが失敗している。 |
北条泰時の執権就任と伊賀氏の変と三浦義村 |
義村の墓の南にある福寿寺は、義村創建と伝えられる臨済宗建長寺派の寺院。 |
横須賀市にある近殿神社は三浦義村を祀る社。 |
三浦市南下浦町 京急三浦海岸駅よりバス 「岩裏」バス停下車すぐ |
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