1195年(建久6年)3月12日、源頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養に参列したときの事。 門内に入ろうとした見物の僧兵達が警護の武士ともめ事を起こしてしまいます。 梶原景時がそれを鎮めようとしますが、その態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となってしまいました。 頼朝は結城朝光を呼んで事態を収拾するよう命じます。 朝光が僧兵達の前に膝まづいて 「前右大将家の使者である」と言うと、僧兵達はその礼儀に感じて、まずは騒ぐのをやめました。 そして頼朝の意向を伝えます。 「この東大寺は平清盛のために炎上し、礎石ばかりを残して灰塵と化してしまいました。 それには僧兵達が最も悲嘆したことでしょう。 源氏は、たまたま後援者となり、再建のはじめから供養の今日にいたるまで援助してきました。 そればかりか、仏道の修行を妨げる悪魔の障害を排除し、落慶法要のために数百里の道のり越えて、この大伽藍に詣でました。 僧兵達は、このことを何故喜ばないのでしょう。 武士であっても、仏道への帰依を思い、大きな事業にたずさわれた事に喜びを感じました。 知恵のある僧侶が何故秩序を乱し、自分達の寺の再興を妨げようとするのでしょう。 それは、とても不適当な考えですので、その理由を承りましょう」 これを聞いた僧兵達は、すぐに自らの行為を恥じ、後悔し、数千の僧兵が一斉に静かになったのだとか。 そして、勇士・容貌の美しさ・はっきりとした物言いに加え、ただ単に戦の計略に深く通じているばかりでなく、寺社での礼節も知っている使者に興味を抱いた僧兵達は名を尋ねます。 朝光は小山と称さず「結城七郎」と名乗って戻っていったのだとか・・・ |
上洛・東大寺大仏殿落慶供養 |
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