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梶原景時は、讒言によって源義経を陥れるなど嫌われ役として扱われているところが多いが、源頼朝には信頼され、幕府では高い地位に就いた武将。 頼朝は、石橋山の戦いで景時に命を救われたという伝説が残されている。 傲慢な態度で頼朝に不信感を与えた上総介広常を暗殺したのも景時。 |
梶原景時は、鎌倉権五郎景政を祖とする桓武平氏。 |
当初源頼朝の独裁だった鎌倉幕府。 頼朝の死後はその政権を子の頼家が継いだが、頼家は妻の実家である比企氏を頼ったため、比企氏に政治の実権を握られることをおそれた北条時政は、将軍独裁から宿老13人による合議制による政治を提案する。 |
北条時政 北条義時 大江広元 三善康信 中原親能 三浦義澄 八田知家 和田義盛 比企能員 安達盛長 足立遠元 梶原景時・藤原行政 |
1199年(正治元年)、景時は、結城朝光の「忠臣は二君に仕えず」という発言に対して、将軍頼家への誹謗であるとして讒言したことが大きな問題となった。 これまでにも景時の讒言によって多くの御家人が失脚してきたことから、三浦義澄らをはじめとする御家人66人が景時を弾劾した。 これによって景時は鎌倉を追放となり、翌年、駿河で最期を遂げた。 この弾劾に北条時政は参加していなかったようであるが、影で御家人を操っていたのは確かなことと考えられ、時政としては、2代将軍頼家よりの景時をどうしても排除したかったものと考えられる。 |
梶原景時の墓 |
源太塚 |
鎌倉と源氏 鎌倉幕府 梶原景時の追放 比企能員の暗殺・比企氏滅亡 畠山重忠殺害と北条氏の世代交替 北条義時の独裁と和田義盛 実朝の暗殺 |
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