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畠山重忠殺害と 北条氏の世代交替 |
1205年(元久2年)、北条時政は有力御家人の畠山重忠追討の兵を挙げ、重忠父子を謀殺した(畠山重忠の乱)。 事の起こりは、将軍の座を狙っていた平賀朝雅が畠山謀反を訴えたことに始まる。 時政は畠山追討の兵を挙げる一方で、「鎌倉で反乱が起こった」と重忠を欺いて鎌倉に呼び出した。 何も知らない重忠は、150騎余の兵を引き連れて鎌倉へと向かうが、途中の二俣川で待ち伏せしていた時政軍に討たれている。 |
北条時政と平賀朝雅の考えは、源頼朝時代のような将軍独裁の幕府にすることにあったようである。 当然将軍実朝の暗殺を企てていたと考えられる。 一方、北条義時は実朝を将軍のまま置き、実権を北条が握ることを望んでいた。 時政が畠山重忠を虚言によって謀殺したことは明白であったため、義時の時政への不審が高まり、将軍実朝を時政から離した上で、ついには時政追放に至った。 その後、時政は伊豆に引退し、朝雅は京で誅殺された。 こうして、畠山重忠謀殺事件を機に、時政と義時は世代交替をした。 義時は政所別当となる。 |
畠山重忠邸跡 (鎌倉市) |
畠山重忠生誕地 (深谷市) |
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