|
城長茂の反乱 |
城長茂(じょうながもち)は、越後国の武将。 城氏は、桓武平氏で平清盛から信頼されていた氏族。 長茂は、源平の戦いでは平家に属し、平家滅亡後は梶原景時に預けられていたが、1189年(文治5年)の奥州合戦で景時の推薦により従軍を許され、御家人に列した。 『吾妻鏡』によると・・・ 1200年(正治2年)1月20日、庇護者の梶原景時が滅ぼされると、その1年後の1201年(正治3年)1月23日、軍兵を率いて上洛。 大番役で京都に滞在していた小山朝政の三条東洞院の宿舎を取り囲んだ。 その日、朝政は土御門天皇が後鳥羽上皇の仙洞御所への行幸に供奉していたため留守だった。。 宿舎にわずかに残っていた兵が防戦したことで、長茂は退散したのだが・・・ 後鳥羽上皇の仙洞御所に参上し、四方の門を閉ざして「源頼家追討の宣旨」を要求した。 しかし、許可されなかったため逃亡。 その後、行方知れずになっていたが、2月22日、郎党4人とともに吉野山に潜伏しているところを誅殺された。 2月29日には、一族の城資家・城資正・藤原高衡(藤原秀衡の四男)が誅殺されている。 |
※ | 城資家と資正は、長茂の甥。 |
※ | 藤原高衡は源義経の首を鎌倉に持参した者で、奥州合戦後、景時が庇護していたと考えられている。 |
城長茂、無作法で御家人推薦取消し! |
越後国では・・・ 城資盛と板額御前が挙兵 |
城資盛(じょうすけもり)は、京都で反乱を起こした誅殺された城長茂の甥。 板額御前は、長茂の妹。 二人は、長茂の挙兵の呼応して挙兵した。 『吾妻鏡』によると・・・ 4月2日、越後国からの飛脚が鎌倉に到着し、城資盛が謀反を起こし、佐渡・越後の軍兵がこれを攻めたが資盛の猛威に陣を破ることができなかったことが報告される。 翌日、北条時政・大江広元・三善善信が協議し、出家して上野国磯部郷に篭居している佐々木盛綱(西念)を大将として鎮圧にあたることに決定。 盛綱への御教書(命令書)は、和田義盛が受け取り、伝令を上野国へ遣わしている。 4月5日、義盛の伝令が上野国に到着。 盛綱は、屋敷の門外にいたが、御教書を読むと、屋敷に戻ることもなく、すぐに馬に乗って越後国へ向かったのだという。 家の者が追いついて 「軽はずみな行動では?」 と問うと 「その昔、天慶年中に平将門が反乱を起こした折、追討使となった藤原忠文は、宣旨が下されたとき食事をしていたが、箸を投げ捨てて参内し、刀を拝領して直ちに追討に向かったのだと聞いている。 このような行動こそが勇士の心がけることだ」 と答えたのだとか。 4月8日には、城氏の勢力圏内である鳥坂口に到達した盛綱は、すぐに資盛に使者をたてて御教書の趣旨を伝えると、資盛は「こちらへ出向いていただき、雌雄を決したい」と返答したのだという。 その話を聞いた越後・佐渡・信濃の三カ国の御家人が一族郎党を引き連れて盛綱のもとに参集した。 合戦の日時は不明だが、『吾妻鏡』には5月14日条に合戦のことが記されているので、5月10日前後のことなのかと・・・ 幕府軍は、一番矢を盛綱の子盛季、二番矢を信濃国の住人海野幸氏が放って、資盛が守る鳥坂城へ攻め込んだのだという。 一方、反乱軍は、板額御前が次々に敵を射殺し、その腕は百発百中で、佐々木軍を圧倒したのだとか。 しかし、信濃国の住人藤沢清親が板額御前の左右のももを射貫いて捕らえると、資盛軍は力を落とし、二刻(4時間)に及ぶ合戦が終わった。 |
|