梶原景時に讒訴された畠山重忠 |
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『吾妻鏡』によると・・・ 1187年(文治3年)6月29日、畠山重忠が地頭を務める伊勢国沼田御厨で、重忠の代官が郡司(地方官)の従者の財産を奪ったとして京都の朝廷に訴えがあった。 9月27日、重忠の身柄が千葉胤正に預けられたが、重忠は7日の間、寝る事も食べる事も断ってしまう。 胤正からの報告を受けて驚いた頼朝は、罪を許したのだという。 許された重忠は、仲間の前で 「請け負った領地の代官には、その器量のある者を選ばなくてはならない。 そのような者がいなければ領地を請け負うべきではない。 重忠は、人よりも清潔であることを自慢に思っていたが、代官の裏切りで、恥辱を受ける事になってしまった」 と語り、本領の武蔵国へ引き上げている。 しかし、その行動が梶原景時の讒言につながった。 11月14日、景時が 「重忠が大した罪でもないのに武蔵国菅谷館へ引き上げたのは、謀反を企てているからだ」 として訴えると、翌朝、小山朝政・下河辺行平・小山朝光・三浦義澄・和田義盛らが集められ、使いを出して確認するか、討手を使わすべきか、が話し合われた。 小山朝光が 「重忠は清い精神も持ち主で道理の通った人物であるので、謀反を企てるはずがない。 使いを出して確かめるのがよい」 と提案すると、皆が賛同。 下河辺行平が使者として派遣されることになった。 17日、畠山館に向かった行平が、事情を重忠に話すと、怒った重忠は、 「何の恨みから、長年の勲功をなげうって、反逆の悪者にならなくてはいけないのだ。 重忠の心を確認する必要などない。 頼朝様も疑っている訳ではないだろう。 ただ、人をおとしいれようとしている奴らの讒言で、呼び出しがあったと騙して、誅殺するために貴殿を差し向けたのであろう。 先祖代々の武家に生まれ、末代でこのような報いを受けるとは、恥ずべきことだ」 と語って、腰の刀を取って自害しようとした。 行平が重忠の手を取って 「貴殿は、実直な者を自称している。 行平も偽りのない心を持っており、貴殿と同じである。 貴殿を誅殺するつもりなら、騙し討ちなどしない。 貴殿は平良文の末裔、行平は藤原秀郷の子孫。 わざと秘密を知らせて戦いを挑めば、それも面白いことと思うが、朋友の行平が派遣されたのは、行平であれば問題を起こすことなく、鎌倉に連れ戻るだろうという頼朝様の思惑なのだろう」 と語ると、重忠は笑いながら行平に酒を勧め、喜び合ったのっだとか。 そして、11月21日、二人は鎌倉へ帰参。 重忠は、景時に対して謀反の意思などないことを弁明したが、景時は起請文の提出を求めた。 重忠は、 「重忠ほどの勇士が、武力で人々の財宝を奪うなどという噂を立てられたのであれば恥ずかしいことだが、謀反を企てようとしたとの噂であれば、かえって名誉である。 ただし、源家を武将の主と仰いでいる今は、二心などない。 にもかかわらず、このような災いに遭ったのは、運がなかったのであろう。 重忠は、心と言葉とを違える者ではないので、起請文を書く必要などない。 起請文は、その発言に疑いがある者に対して書かせるもの。 重忠の言に偽りがないことは、頼朝様もご承知のはず。 直ぐに、頼朝様にご報告いただきたい」 と主張。 報告を受けた頼朝は、是非を語らず、すぐに重忠と行平を呼んで世間話を始めたのだという。 その後、行平は、重忠を連れてきた褒美として剣を与えられている。 |
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