|
源希義は、源頼朝の同母弟。 1159年(平治元年)の平治の乱で父義朝が平清盛に敗れると、頼朝は伊豆国(蛭ヶ小島)に流され、希義は土佐国に流された。 その後二人が再会することはなかったが、1994年(平成6年)、お互いの墓所の土と石を交換し、やっと再会が実現した。 |
源希義は、源義朝の子。 母は源頼朝と同じ由良御前。 平治の乱後の1160年(永暦元年)3月11日、土佐国介良荘に流された。 1180年(治承4年)に兄頼朝が挙兵すると、希義も挙兵するのではないかと恐れた平氏は希義討伐を決める。 希義は、夜須行宗(やすゆきむね)を頼ろうとするが、夜須荘に辿り着く前に平重盛の家人で土佐国の豪族、蓮池権守家綱と平田太郎俊遠に討たれた。 討たれた時期については、頼朝が挙兵した1180年(治承4年)とする説と、1182年(寿永元年)9月25日とする説がある。 『吾妻鏡』によると、希義の師であったという土佐国の琳猷上人は、1185年(元暦2年)3月27日、希義の遺髪を持って鎌倉を訪れ、頼朝に対面している。 平氏に討たれた希義の遺体は、平氏の仕返しを恐れて放置されたままになっていたが、それを葬って供養し続けきたのが琳猷上人だった。 頼朝は、「死んだ弟に会えたようだ」と言って琳猷上人に礼を述べたという。 1187年(文治3年)正月19日、頼朝は希義の追善供養を行い、希義の墓所に堂(西養寺)を建立している。 |
源頼朝は、奥州征伐の祈願所として建立した持仏堂(のちの法華堂)に葬られた。 現在は、その法華堂跡に島津重豪による層塔が建てられている。 |
鎌倉市西御門2丁目 鎌倉駅東口より徒歩15分 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|