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1563年(永禄6年)に西三河で起こった三河一向一揆の中心的人物が、野寺御本坊とも呼ばれた本證寺十代の空誓(くうせい)。 空誓は、本願寺中興の祖といわれる蓮如の曾孫で、1561年(永禄4年)に九代の玄海が加賀一向一揆に加担して戦死したことから、その跡を継いで住持となった。 一向一揆は、一向宗(浄土真宗本願寺教団)の信徒たちによる権力に対する武装蜂起のこと。 三河一向一揆は、松平家康(徳川家康)への抵抗運動だった。 本證寺は一揆の拠点となった寺で、1549年(天文18年)の門徒連判状が残されており、松平氏・今川氏・吉良氏・水野氏に仕える115名もの武士が署名している。 これは、各家に仕える武士たちに領主の争いとは関係のない宗教的な結束があったことを示している。 実際、三河一向一揆では、本多正信や夏目広次といった家康の家臣の多くが反旗を翻し、家康を窮地に追い込んでいる。 しかし、翌年、一揆が解体されると、一向宗寺院の多くが破却され、坊主衆は国外追放となり、一向宗は三河国での活動を禁じられることとなった。 空誓は加茂郡菅田和(豊田市)に逃れている。 20年後・・・ 1583年(天正11年)、家康は一向宗門徒を赦免し、天正13年には本證寺などの住持と坊主衆の還住を認めた。 本證寺の復興を果たした空誓は、以後、家康との関係を密にし、晩年には江戸城に招かれ、尾張藩主となる九男・義直を助けるよう依頼され、入封の際には清洲城に登城して祝辞を述べたのだという。 このことで、本證寺の歴代住持は、尾張藩主が交代する際には登城を許され、藩主や将軍に謁見することを許されたのだと伝えられている。 |
本願寺は、浄土真宗開祖の親鸞の廟堂(墓地)の創建に始まる。 石山本願寺の時代には、周囲に堀や土塁が築かれた城郭として存在し、織田信長と対立した十一世の顕如は城郭に籠って10年もの間戦っている。 のちに豊臣秀吉の命により京都に移転するが、家康が顕如の長男・教如に新たな寺地を寄進したことで、東西に分立。 三河一向一揆に苦しんだ家康が、本願寺教団を分裂させ弱体化を図ったという説もある。 それを献策したのが三河一向一揆で家康に反旗を翻した本多正信だったとも・・・ |
西本願寺 |
東本願寺 |
三河一向一揆の中心人物だった空誓は、後に家康に接近し、本願寺教団の三河国内での地位確立に尽力。 本願寺の東西分立では、東本願寺に属している。 |
大坂城は、石山本願寺があった地に築かれた城。 |
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