帰参が許された本多俊正・正信・正重 |
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本多俊正は、松平家の重臣・酒井忠尚に仕えていた武将。 1563年(永禄6年)、酒井忠尚が松平家康(徳川家康)に対して謀反を起こして挙兵すると、俊正は忠尚に従っている。 同年、三河一向一揆が起こると、俊正の次男・正信と四男・正重は、仕えていた家康に反旗を翻して一揆方に加担。 翌年1月、一揆が鎮圧されると、正重は家康に帰参するが、正信は出奔。 俊正は、一揆鎮圧後も忠尚とともに上野城に拠って9月まで戦い、戦後、家康に帰参して鷹匠となったのだというが、その後は不明。 出奔した正信は、のちに家康に帰参し、江戸幕府では幕政を主導するまで出世。 正重は、数々の戦で功をあげ大名となっている。 参考までに、俊正の長男・青野重貞は家康方に付いて一揆鎮圧のため働いている。 酒井忠尚は、戦後、行方不明。 |
※ | 酒井忠尚は一揆に与したとされているが、忠尚と一揆が連絡をとっていた形跡はないのだという。 |
※ | 本多正信らが家康に反旗を翻す中、一族の本多忠勝は家康に付いて戦っている。 |
1602年(慶長7年)、徳川家康は本願寺十二世の准如と対立していた兄の教如に寺領を寄進。 これにより本願寺は、東西に分立することになる。 三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺勢力を弱体化させるためにとった措置とする説があるが・・・ 本願寺の東西分立を家康に献策したのは、三河一向一揆で一揆方に加担し、加賀一向一揆にも加わっていたという本多正信だったのだという。 |
西本願寺 |
東本願寺 |
本願寺は、浄土真宗開祖の親鸞の廟堂(墓地)の創建に始まる。 分立後は、区別するため西本願寺・東本願寺と呼ばれるようになる。 西本願寺には正信の墓があるらしい。 |
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