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不破関は、672年に起こった壬申の乱の翌年に設置された関所。 飛鳥浄御原宮を守るために設置されたもので、789年(延暦8年)に廃止されたが、国内騒乱などの非常時には関所を警固する固関使が派遣されていた。 不破関を境に関東・関西の呼称が使われるようになったともいわれている。 1221年(承久3年)、打倒北条義時の承久の乱を起こした後鳥羽上皇は、固関使を任命して不破関を守らせたと伝えられるが・・・ 藤原秀康をはじめとする朝廷軍は、摩免戸の戦い・杭瀬川の戦いで大敗を喫し、総崩れとなって退却している。 『吾妻鏡』によると・・・ 朝廷軍を退けた幕府軍の大将軍北条時房と北条泰時は、6月7日、東山道・東海道の軍隊を野上・垂井の宿に布陣させた。 軍議では三浦義村が、 北陸道の大将軍(北条朝時ら)が上洛する前に軍兵を東へ遣わし、 「勢多」は北条時房 「手上」は安達景盛と武田信光 「宇治」は北条泰時 「芋洗」は毛利季光 「淀の渡し」は結城朝光と三浦義村 が向かうという案を出すと、 泰時は了解し、皆異議はなかったのだという。 翌8日には摩免戸の戦いでの大敗が後鳥羽上皇に知らされている。 |
垂井宿は、美濃国一之宮の南宮大社の門前町として賑わった宿場。 |
関ヶ原の野上宿は、壬申の乱の際に大海人皇子(天武天皇)が本営とした地。 壬申の乱は、672年、吉野に下っていた大海人皇子が挙兵し、大友皇子を破った戦い。 戦国時代の関ヶ原の戦いで徳川家康が陣を敷いた桃配山の名は、大海人皇子が村人から献上された桃を兵たちに配ったことによるのだとか。 |
園城寺は、壬申の乱で敗れた大友皇子の子・大友与多王が、天武天皇の許可を得て創建した寺。 |
弓矢の道の習わし〜武田信光と小笠原長清:大井戸の渡し〜 幕府の大軍に立ちはだかった鏡久綱〜承久の乱:摩免戸の戦い〜 |
瀬田の唐橋 |
宇治橋 |
瀬田橋と宇治橋は京都防衛の要衝地。 1184年(寿永3年)の源頼朝の木曽義仲追討の際にも、源範頼が瀬田を、源義経が宇治を攻めた。 |
瀬田の合戦〜宇都宮頼業の活躍〜 宇治川の戦い 三浦義村の弟・胤義 佐々木経高の最期 合戦張本の公卿 |
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『承久記』(慈光寺本)によると・・・ 後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発したときの北条政子の演説では、武田信光が鎌倉に味方することを表明。 すると、意義を唱える者はなかったのだという。 |
北条政子の言葉(『吾妻鏡】) 北条政子の演説(『承久記』) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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