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「君が代も我が代も尽きじ石川や瀬見の小川の絶えじとおもへば」 源実朝が詠んだこの歌は、鴨長明の 「石川や瀬見の小川の清ければ月も流れも尋ねてぞすむ」 を本歌としたもの。 |
「瀬見の小川」は、下鴨神社が鎮座する糺の森を流れる川。 『吾妻鏡』によると、1211年(建暦元年)10月、鴨長明は飛鳥井雅経の推挙によって鎌倉に下向し、源実朝と何度か面会している。 この時、実朝は長明から「瀬見の小川」を詠んだ歌について聞いたのかもしれない。 |
〜長明の鎌倉下向は建暦2年という説と実朝の「祝の歌」〜 |
長明が鎌倉に下向したのは、翌建暦2年のことだとする説がある。 実朝が詠んだ「君が代も我が代も尽きじ石川や瀬見の小川の絶えじとおもへば」は、『金槐和歌集』に「祝の歌」として載せられているもの。 「院」とは後鳥羽上皇のこと。 建暦2年は、後鳥羽上皇の子順徳天皇の大嘗会が行われた年。 この歌は、長明から大嘗会のことを聞いた実朝が「祝の歌」として詠んだという説も・・・ |
『吾妻鏡』によると・・・ 鎌倉に下向した鴨長明は、源頼朝の命日に法華堂を参拝し、経を唱え、昔を思い出して涙し、一首の和歌を法華堂の柱に書き残したのだいう。 『北条九代記』によると・・・ 「頼朝の武勇の威力は天下にあまねく輝き渡り、 勢いある武力で国内を平定し、 代々と続いた源家の大運がここに開け、 なびかぬ草木もなかったのに、 無常の悪鬼の襲い来るのを防ぐすべもなく、 53歳の生涯はたちまちに終わり着いて、 青草の生える一個の塚に葬られ、 墨書きの施された数尺の卒塔婆ばかりが、 その光栄ある頼朝の名を伝えるしるしとして残っている」 と、昔を懐かしんで涙を流しながら、一首の和歌を法華堂の柱に書きつけたのだという。 その歌は、 「草も木もなびきし秋の霜消えて空しき苔をはらう山風」 (人はもとより草も木もなびいていた秋の霜(頼朝)が消え去って、塚に生えたむなしい苔を山風が吹きはらっているばかりである) |
鴨長明は、下鴨神社の禰宜・鴨長継の次男。 摂社河合神社の禰宜職をめぐる争いに敗れて遁世。 1212年(建暦2年)に成立したという『方丈記』は、「栖」(すみか)とした方丈の中から世間を観察して、世の無常と人生のはかなさを著したのだという。 |
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