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平知康(たいらのともやす)は、後白河法皇の近侍した武将。 検非違使左衛門尉。 鼓の名手で「鼓判官」(つづみのほうがん)と呼ばれていた。 |
1183年(寿永2年)11月19日の法住寺合戦では指揮官として木曽義仲と戦うが敗北。 |
法住寺殿は、後白河法皇の院御所。 法住寺合戦では、木曽義仲が法住寺殿を襲撃し、明雲・円恵法親王・源光長・源光経・藤原信行・清原親業・源基国などが戦死。 後白河法皇は幽閉されている。 |
※ | 明雲は比叡山延暦寺の貫主(天台座主) |
※ | 円恵法親王は後白河法皇の第四皇子。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1185年(元暦2年)、源義経が源頼朝への謀反を企てると義経に与同。 1186年(文治2年)12月11日、弁解のため鎌倉に下向しているが解官されている。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 頼朝の死後は、源頼家に仕えた。 1202年(建仁2年)6月25日、頼家の御所で催された蹴鞠の会で北条時連(時房)に改名を勧め、その話を聞いた北条政子に激怒されている。 その時、政子が語ったのは、 「その昔、木曽義仲が法住寺殿を襲撃した際、公卿や殿上人が恥をかいたのも、知康が後白河法皇に義仲追討の建議を奉ったから。 また、源義経に味方して将軍家を滅ぼそうと諮った際、先代(頼朝)は知康の職を解き、追放するように法皇に申し入れていました。 それなのに、頼家はそれを忘れ、親しくそばに近づけたことは、亡き父の趣旨に反しています」 という内容だったと伝えられている。 |
北条時房の元服と北条政子が激怒した改名の逸話 |
1203年(建仁3年)、頼家が失脚し、伊豆の修禅寺に幽閉されると帰洛したのだという。 生没年不詳。 |
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