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1219年(建保7年)1月27日、三代将軍源実朝が公暁に暗殺された。 『吾妻鏡』によると、実朝亡き後、鎌倉幕府を守り、天下を治めたのは北条政子だった。 |
源実朝が暗殺される前年の1218年(建保6年)2月、北条政子は弟の北条時房を連れて上洛。 その目的は、子ができない実朝の跡継ぎについて、後鳥羽上皇の乳母藤原兼子に皇族将軍の斡旋を相談するため。 2人の間では、頼仁親王を次期将軍とする約束が交わされていたと考えられている。 1219年(建保7年)2月13日、六条宮(雅成親王)と冷泉宮(頼仁親王)のどちらかを将軍として迎えられるよう上申するため、二階堂行光を上洛させる。 3月15日、新将軍の鎌倉下向等について話し合わせるため、北条時房を代理として上洛させる。 『吾妻鏡』は、4月〜6月の記事が欠落していることから、その後の交渉の詳細は不明だが・・・ 1221年(承久3年)5月19日の記事によると、後鳥羽上皇は北条義時に対して二度にわたって、長江庄と倉橋庄(後鳥羽上皇の妾・伊賀局(亀菊)に与えられていた荘園)の地頭職廃止の宣旨を下したが、義時が幕府の根幹を揺るがすとして拒否したため、上皇の怒りは凄まじかったのだという。 両者の交渉決裂は承久の乱の一因ともいわれる。 その後、政子と義時は、親王将軍を諦めて摂家将軍を迎えることとし、7月19日、九条道家の子・三寅(後の九条頼経)が鎌倉殿として下向した。 ただし、三寅は2歳なので、政子が後見役となっている。 北条政子の上洛と将軍継嗣問題 |
1221年(承久3年)3月21日、波多野朝定を伊勢神宮へ遣わす。 夜明けに見た夢の中で二丈(6m)もある鏡が由比の海に浮かび、 「吾は大神宮である。 天下を鑑みると世が乱れて徴兵することとなる。 やすらかな時は、吾を信心すれば平和になるであろう」 と告げられたからなのだとか・・・ 5月15日、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発すると・・・ 5月19日、安達景盛を通して 「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」 と説いて御家人の結束を固め、上洛するよう命じる。 5月22日、幕府軍19万騎が進軍開始。 6月14日、北条泰時が宇治で、北条時房が瀬田で朝廷軍を敗走させ、翌日入京。 8月7日、承久の乱の勝利は、3月の夢のお告げのとおりとなったため、伊勢神宮の内宮と外宮に社領を寄進。 鶴岡八幡宮をはじめとする各地の神社にも同様の寄進を行った。 幕府に対する謀反を企てた者の領地三千数か所については、勲功の大きさによって分け与えている。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 |
1222年(貞応元年)10月26日、内大臣西園寺公経の昇進について朝廷へ内申。 公経は、源頼朝の姉妹坊門姫が産んだ全子の夫。 三寅(後の九条頼経)の祖父。 承久の乱後の朝廷は、公経を中心に再編成され、政子の推挙で太政大臣となって権勢を誇った。 |
1224年(貞応3年)6月13日、北条義時死去。 6月28日、北条泰時に北条時房を後見役として、武家政治を執行するよう命じる。 |
1224年(貞応3年)7月17日、伊賀氏の謀反の企てに関わっていると思われる三浦義村を諫める。 閏7月3日、政子御前の会議で、北条時房・大江広元らが集まり、伊賀光宗と伊賀局(義時の後妻)を流罪と決定。 8月29日、伊賀局を伊豆国北条郷へ、伊賀光宗を信濃国へ流罪と命ずる(伊賀氏の変)。 |
1225年(嘉禄元年)7月11日死去。 『吾妻鏡』は、 「漢の高祖の呂皇后と同じように天下を治め、神功皇后の生まれ変わりのように我が国の天皇家を護った」 と伝えている。 北条政子の死 |
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