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★北条執権館 |
宝戒寺は、代々の執権館の跡地に建てられた寺院。 北条義時の小町亭もこの辺りにあったのだといいます。 源頼朝亡き後の鎌倉は、有力御家人が次々に滅ぼされ、北条氏による執権政治が確立されていきます。 |
1199年(建久10年)1月26日、源頼家が家督を相続して二代目の鎌倉殿となりますが・・・ 4月12日には、「宿老13人による合議制」が採用され、頼家が訴訟を直接に裁断することが停止されました。 その13人とは、北条時政・北条義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政。 |
戦国時代、美濃国の斎藤道三や織田信長が居城とた岐阜城(稲葉山城)には、「行政が築いた砦を始まり」とするという伝承があるらしい・・・ |
★頼朝の次女三幡 |
1199年(正治元年)6月30日、源頼朝の次女三幡が亡くなります。 乳母夫だった中原親能の亀谷堂に埋葬されたのだと伝えられています。 亀ヶ谷坂の入口にある岩船地蔵堂は、三幡の姉大姫の守り本尊の石地蔵尊を安置するといわれますが、三幡の墳墓堂ではないかという説もあります。 |
中原親能は近江国の石山寺を信仰し、妻で三幡の乳母を務めた亀谷禅尼は、出家後、石山寺に住したのだといいます。 石山寺には、頼朝と亀谷禅尼のものといわれる宝篋印塔が並んで建てられています。 石山寺の東大門・鐘楼・多宝塔は、頼朝の寄進と伝えられています。 |
★梶原景時の変 |
1199年(正治元年)12月18日、梶原景時が結城朝光を讒言したことをきっかけに鎌倉から追放となり、所領の一宮に退きます。 翌1200年(正治2年)正月20日、景時は上洛するため一宮を発ちますが、駿河国清見関付近で在地武士と合戦となり最期を遂げました(梶原景時の変)。 |
仏行寺の源太塚には、景時の子で父とともに討死した景季の片腕が埋められているのだと伝えられています。 仏行寺は、景季の死に悲しんで自害した妻の信夫の霊を慰めるために建てられたのだといいます。 鎌倉山にある「しのぶ塚」は、源太塚と向き合っているのだとか・・・。 |
大巧寺は、梶原景時邸にあった「大行寺」という真言宗の寺で、頼朝が戦評定を行い大勝を収めたことから「大巧寺」と改められたのだといいます。 大巧寺がいつ頃から現在地に移転したのかはわかりませんが、梶原景時の変で景時邸は解体されて永福寺の僧侶の住居として寄附されています。 |
毎年7月15日、建長寺では景時の亡霊を鎮めるための施餓鬼会が行われています。 景時終焉の地に建つ碑に刻まれている「鎌倉本體の武士 梶原景時終焉之地」は、建長寺管長の筆。 |
梶原景時が駿河国で討死してから3日後の1月23日、頼朝の挙兵当初からの御家人三浦義澄が死去(享年74)。 墓所は横須賀市の薬王寺。 |
★壽福寺 |
1200年(正治2年)、北条政子が頼朝の父義朝の旧跡を栄西に寄附し、閏2月13日、三善康信(善信)と二階堂行光の奉行によって、壽福寺建立の「造作始め」が行われています。 |
壽福寺を開いた栄西は、わが国臨済宗の開祖。 1202年(建仁2年)には、源頼家の援助で京都の建仁寺を開いています。 「十日ゑびす」で知られる恵美須神社(ゑびす神社)は、栄西が建仁寺の鎮守として創建したのだといいます。 1206年(建永元年)には東大寺の二代目大勧進職に任じられ、東大寺の鐘楼は栄西が再建しました。 栄西が著した我が国最古の茶書『喫茶養生記』は、源実朝にも献上されています。 |
★安達盛長の死 |
1200年(正治2年)4月26日、頼朝が蛭ヶ小島の流人の頃から仕えていた安達盛長が亡くなります(享年66)。 盛長の屋敷は甘縄にあったとされ、古くから甘縄神明神社の東南あたりと伝えられてきたようです。 ただ、鎌倉時代の「甘縄」の範囲は、坂ノ下の御霊神社辺りから扇ヶ谷を含めた広範な地だったと考えられています。 近年の調査では、無量寺ヶ谷(扇ガ谷)にあったとされているようです。 無量寺(無量寿院)は安達氏の菩提寺。 鎌倉歴史文化交流館が建てられている地が無量寺跡とも考えられているようです。 |
安達盛長の妻は、頼朝の乳母比企尼の長女丹後内侍。 丹後内侍には、頼朝の御落胤島津忠久を産んだという伝説が各地に残されています。 大阪の住吉大社には忠久の誕生石が祀られ、頼朝の子を身籠った丹後内侍の伝説が伝えられています。 頼朝ゆかりの伊豆函南町の高源寺や茅ヶ崎市の「えな塚」・厚木市の小町神社にも。 |
安達盛長の墓は、伊豆の修禅寺や厚木市の金剛寺など数か所にあるようです。 鴻巣市の放光寺にも墓所があり、本堂には南北朝期の安達盛長像が安置されています。 |
建久年間、安達盛長は相模国愛甲郡三田村を領していたのだといいます。 厚木市三田には、盛長が鶴岡八幡宮を勧請して再建したという八幡神社があります。 |
★甘縄神明神社 |
長谷の鎮守・甘縄神明神社は、710年(和銅3年・奈良時代)に行基が草創し、豪族の染屋時忠が建立した鎌倉で最も古い神社とされています。 『北条九代記』によると、頼朝に鎌倉入りを進言した千葉常胤は、 「鎌倉の地名は大織冠藤原鎌足の伝説に由来していること」 「鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていたこと」 「平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となったこと」 を理由に挙げたのだと伝えています。 |
一説によると、奈良の東大寺や伊勢原の大山寺を開いた良弁は染屋時忠の子なのだとか。 2016年(平成28年)、「大山詣」と「いざ、鎌倉」は日本遺産に認定されました。 大山詣の「納めの太刀」の風習は、源頼朝が戦勝祈願の太刀を大山寺に奉納したことに始まるのだといいます。 |
★比企能員の変 |
1203年(建仁3年)、二代将軍源頼家が重病となったの機に北条時政と比企能員の対立が激化。 9月2日、時政は能員を自邸に誘きだして暗殺します。 暗殺を実行したのは天野遠景と仁田忠常でした。 同時に、北条政子が北条義時らに命じて比企邸を襲撃させたことにより比企一族は滅亡しました(比企能員の変)。 |
襲撃をうけた比企一族は、頼家の嫡子一幡の小御所に籠って防戦しますが、畠山重忠の威力に押され、館に火を放って自刃したのだといいます。 一幡もその難を免れることはできませんでした。 |
頼家の側室で一幡の母若狭局(讃岐局)は、比企ヶ谷が燃え上がる中、井戸に身を投げたのだと伝えられています。 その井戸が蛇苦止ノ井(蛇形井)。 のちに若狭局は、蛇苦止明神として祀られています。 |
比企能員は、武蔵国比企郡を領した豪族。 源頼朝の乳母を務めた比企尼の猶子(甥)。 比企尼は、1160年(永暦元年)3月、頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に流されると、忠義を尽くすために夫の比企掃部允とともに京都から武蔵国比企郡へ下り、1180年(治承4年)8月に頼朝が挙兵するまでの約20年の間、援助を続けました。 頼朝は、流人時代に世話になった比企尼を鎌倉に迎え入れますが、妙本寺の祖師堂の辺りに比企尼の屋敷があったのだといいます。 |
比企能員の変が起こる少し前の6月23日、頼家への謀反を企てたとして捕らえられた阿野全成が誅殺されています。 全成は頼朝の異母弟で北条時政の娘阿波局を妻としていました。 沼津市の大泉寺に墓が建てられています。 |
比企能員の変後、頼家は出家させられ、弟の実朝が三代将軍に就任します。 その後、頼家は修禅寺に幽閉され、翌年7月18日に暗殺されました。 修禅寺の頼家墓の横には、北条政子が頼家の冥福を祈って建てたという指月殿があります。 浅草寺の宝蔵門には、政子が頼家の追善供養のために中国から取り寄せて鶴岡八幡宮に奉納したという「元版一切経」が収蔵されています。 三嶋大社には、重病となった頼家が平癒を願って奉納したという般若心経が伝えられています。 |
東松山市の正法寺(岩殿観音)は比企能員が再興した寺で、千手観音は北条政子の守り本尊だったとも伝えられています。 比企能員の変後、比企時員(能員の子)の妻は、正法寺に落ち延び男児を出産したのだといいます。 |
★畠山重忠の乱 |
畠山重忠は武蔵国の武将。 頼朝の鎌倉入り・奥州征伐・上洛などで先陣を務め「鎌倉武士の鑑」と呼ばれました。 1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略により武蔵国の二俣川で最期を遂げます(畠山重忠の乱)。 |
畠山重保は、重忠の嫡子。 父重忠が討たれた日の早朝、重保は由比ヶ浜に謀反人が集結しているとの報を受けて従者3人とともに浜へと向かいますが、待ち構えていた三浦義村の手の者が重保を取り囲み、重保は訳のわからぬまま討ち取られてしまったのだと伝えられています。 重保の屋敷は、若宮大路の一の鳥居の近くにあったのだといいます。 |
武蔵国の有力御家人畠山重忠を滅ぼした北条時政でしたが、2か月後の閏7月19日、時政の後妻牧の方による「源実朝を亡きものにして娘婿の平賀朝雅を将軍に据えよう」という企てが発覚(牧氏の変)。 時政は出家し、翌日、伊豆国追放となりました。 そして、1215年(建保3年)1月6日、北条の地で死去。 時政が創建した願成就院に墓が建てられています。 |
青梅市の武蔵御嶽神社は、奈良吉野の蔵王権現が勧請された山岳信仰の霊地で、鎌倉武将に信仰され、多くの武具などが奉納されました。 畠山重忠奉納と伝わる「赤糸縅大鎧」は国宝で、鎌倉歴史文化交流館でその模造を観ることができます。 武蔵御嶽神社の摂社産安社は、源頼朝創建と伝えられています。 |
横浜市金沢区の東光禅寺は、畠山重忠の創建と伝えられ、鎌倉宮付近にあったという医王山東光寺を前身としているのだとか。 近くには重忠の嫡子重保の五輪塔もあります。 |
★江の島と源実朝と円覚寺舎利殿 |
江島神社の辺津宮は、源実朝の命によって鶴岡八幡宮の供僧良真によって創建されたと伝えられています。 |
辺津宮にある江島霊迹建寺の碑は、1204年(元久元年)、実朝が宋国に使節を送った際、宋の慶仁禅師より贈られた石碑と伝えられています。 |
円覚寺の舎利殿には、実朝が宋国の能仁寺より請来した仏舎利が納められているのだといいます。 江の島の伝説によると、実朝が宋に送った使節が持ち帰ったものなのだとか。 |
円覚寺の舎利殿は、西御門にあった太平寺の仏殿だった建物。 太平寺は、頼朝が命を助けてくれた池禅尼の恩に報いたいるために、禅尼の姪の願いを聞き入れて建てた寺がはじまりだったのだとか。 |
★鴨長明の歌 |
1211年(建暦元年)10月、鴨長明が鎌倉に下向して源実朝に面会。 源頼朝の法華堂(源頼朝墓)を参拝し た長明は「草も木も なびきし秋の霜消えて 空しき苔を はらう山風」 と詠んだといわれています。 源実朝と鴨長明 |
1211年(建暦元年)、北条政子は源頼朝の菩提を弔うため高野山に金剛三昧院の前身となる禅定院を建立。 高野山には、源頼朝の三男貞暁が建てた源氏三代の五輪塔もあります。 |
★和田合戦 |
1213年(建暦3年)5月2日、和田義盛が北条義時打倒の挙兵をします。 三男朝比奈義秀の活躍もあって和田勢は大いに奮戦しましたが、次第に北条軍に押され由比ヶ浜に退き、翌日、江戸義範の軍に討たれて最期を遂げました(和田合戦)。 由比ヶ浜の和田塚は、和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられています。 |
足利義氏は、政所前の筋替橋付近で朝比奈義秀と遭遇。 義秀に鎧袖を掴まれますが、義氏が馬に鞭を打って堀を飛び越えると、鎧袖がちぎれ落馬もせずに逃れることができたのだといいます。 |
武田信光は、若宮大路の米町口(下の下馬橋付近)で朝比奈義秀と遭遇。 両者は睨み合って戦おうとしますが、信光の子信忠が身代わりになろうと割って入ります。 父に代わって死を選んだ信忠に感じ入った義秀は、戦わずして走り去ったのだといいます。 |
若宮大路の琵琶橋では、八田知家の四男宍戸家政が朝比奈義秀と戦って討死したのだといいます。 |
かつての鶴岡八幡宮の太鼓橋は、朱塗りの橋だったことから赤橋と呼ばれていました。 赤橋付近では、和田勢の土屋義清(岡崎義実の子)が神矢を受けて討死し、壽福寺に葬られたのだと伝えられています。 |
歌ノ橋は、和田合戦のきっかけとなった泉親衡の謀反に加担したとして捕らえられた渋川刑部六郎兼守が架けた橋。 兼守は、無実の罪を晴らすために十首の和歌を荏柄天神社に奉納。 それを手に取った源実朝は、感動して兼守を無罪放免に。 兼盛は、その礼として二階堂川に橋を架けたのだといいます。 |
山内荘(北鎌倉)は、富士川の戦い後、土肥実平に預けられ、和田合戦の時には、実平の孫惟平が地頭職を務めていました。 しかし、惟平は和田義盛に味方して処刑されたことから、北条義時の預かりとなります。 以後、山内荘は北条得宗家の所領となり、建長寺・最明寺(明月院)・浄智寺・円覚寺・東慶寺といった禅寺が建ち並ぶようになります。 |
建長寺 |
円覚寺 |
明月院 |
浄智寺 |
東慶寺 |
武蔵国横山荘を本拠とした横山党は、和田合戦で和田義盛に加担したことで横山荘を没収され、歴史の表舞台から姿を消しました。 八王子市の八幡八雲神社は、横山氏の館跡とされ、境内には和田合戦後に横山荘を手に入れた大江広元が建立したという横山神社があります。 また、廣園寺は大江広元の館跡とも伝えられているそうです。 |
★実朝の歌 |
「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」 1213年(建暦3年)に源実朝が詠んだ歌。 この年、和田合戦が起こり、直後には大地震に見舞われ、「山は崩れ地は裂ける」という状況だったのだといいます。 「君」とは、後鳥羽上皇のこと。 |
★実朝の寺 |
大慈寺は、1212年(建暦2年)に源実朝が後鳥羽上皇への恩と父頼朝の徳をたたえるため、大倉郷に建設を開始した寺院。 1214年(建保2年)7月27日には、栄西が呼ばれ、北条政子も参列する大法要が催されました。 三善康信が実朝に話した霊夢によると、頼朝も大倉郷に寺を建てようとしていたのだとか。 円覚寺の舎利殿に納められている実朝請来という仏舎利は、大慈寺に納められていたのだといいます。 |
★江の島が陸続きになった日 |
1216年(建保4年)正月15日、江の島明神からのお告げがあって、海がたちまちのうちに道になってしまい、参詣者は船に乗ることなく江の島へ渡れるようになったのだとか。 その様子を視察した三浦義村は、源実朝に「霊験あらたかなことでございます」と報告しています。 江の島トンボロは、江の島と片瀬の浜が干潮時につながる砂の道。 |
★由比ヶ浜 |
鎌倉時代は、鶴岡八幡宮の前の浜という意味から「前浜」と呼ばれていた由比ヶ浜。 1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵時には小坪合戦がありました。 1186年(文治元年)、源義経の愛妾静御前が産んだ男児が捨てられました。 1187年(文治3年)、鶴岡八幡宮の放生会を始めた頼朝は千羽鶴の放生を行ったのだとか・・・ 伊豆・箱根の二所詣の際には沐浴で身を清める「二所精進」が行われました。 1205年(元久2年)、畠山重忠の嫡男重保が三浦義村に討たれました。 1213年(建暦3年)、和田義盛が最期を遂げました。 そして源実朝は、1216年(建保4年)、渡宋を思い立ち、東大寺の大仏鋳造と大仏殿の建設に尽力した宋国の工人陳和卿に造船を命じました。 船は翌年完成しましたが進水はできなかったそうです。 |
頼朝の時代その2 |
北条の時代その2 |
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