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★追放された源義経 |
木曽義仲追討・一ノ谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いで活躍した源義経。 壇ノ浦の戦いで捕えた平宗盛を護送して鎌倉に凱旋しようとしますが、頼朝は義経の不行跡を理由に鎌倉に入ることを許しませんでした。 満福寺は、義経が弁明のための「腰越状」を書いた寺と伝えられています。 |
★義経の堀川館を襲撃した土佐坊 |
1185年(文治元年)、土佐坊昌俊は、頼朝の命により義経がいる京都の堀川館を襲撃しました。 しかし、襲撃は失敗。 鞍馬山に逃げ込みますが捕らえられ、六条河原で斬首されています。 |
土佐坊昌俊は、源義朝に仕えた渋谷金王丸と同一人物ともいわれています。 東京渋谷の金王八幡宮は、渋谷氏の祖河崎基家が建立した神社で渋谷八幡宮と呼ばれていましたが、金王丸の名声によって社名を改めたのだと伝えられています。 社殿前の金王桜(憂忘桜)は、頼朝が鎌倉の亀ヶ谷の館から移植させた桜と伝えられています。 |
土佐坊昌俊の堀川館襲撃後、義経は後白河法皇より頼朝追討の院宣を得ています。 しかし、思うように兵は集まらず、九州を目指して大物浦から船出しますが難破。 その後、四天王寺・住吉大社などを経て吉野山に逃れますが、その後は行方不明となります。 |
★勝長寿院 |
勝長寿院は、頼朝が父義朝の菩提を弔うために創建した寺院。 1185年(文治元年)9月3日、後白河法皇に探し出してもらった義朝とその郎党鎌田政清の髑髏が埋葬されています。 頼朝亡き後、北条政子が建てた五仏堂には、運慶の五代尊像が安置されたのだと伝えられています。 |
本蓮寺は、義朝の遺骨を送り届けてきた後白河法皇の勅使と頼朝が対面した場所と伝えられています。 |
★守護・地頭 |
1185年(文治元年)11月、頼朝の命で入京した北条時政は、朝廷に「義経・行家の捜索・逮捕」、「守護・地頭の設置」、「兵粮米の徴収」を認めさせました(文治の勅許)。 これにより、頼朝は、自らの命で動かすことのできる御家人を全国に配置することになります。 「守護・地頭」を設置する案を献策したのは、大江広元でした。 |
愛知県新城市には、平治の乱に敗れた頼朝が匿われていたと伝わる鳳来寺があります。 文治年間、頼朝はその恩に報いるため三重塔をはじめとする諸堂を建立したのだと伝えられています。 徳川家康の母於大の方は鳳来寺の薬師如来に祈願して家康を授かったのだとか。 |
★銭洗弁財天 |
巳の年の巳の月の巳の日に宇賀福神から「西北の仙境に湧きだしている霊水で神仏を祀れば、世の中が平穏に治まる」と告げられた頼朝。 そのお告げで祀られたのが銭洗弁財天宇賀福神社なのだとか。 |
★杉本寺 |
杉本寺は坂東札所一番。 坂東三十三箇所は、頼朝の観音信仰と、源平の戦いで西国に赴いた武者たちが、西国三十三箇所の霊場を観たことで、鎌倉時代初期の開設につながったのだといわれています。 |
★静の舞 |
1186年(文治2年)4月、源義経の愛妾静御前が鶴岡八幡宮で舞いました。 前年、義経とともに都落ちし、吉野山で義経と別れた静は、義経を慕う今様を歌いながら舞ったのだといいます。 工藤祐経が鼓を畠山重忠が銅拍子を担当しました。 静の舞に参列者のほとんどが心を動かされたようです。 頼朝は激怒したそうですが・・・ |
吉野山で義経と別れた静は、蔵王堂(金峯山寺)の僧兵に捕らえられたのだと伝えられています。 捕らえられた静は、勝手神社の社殿の前で舞い、荒法師たちを感嘆させたのだとか。 |
★鶴岡八幡宮の放生会 |
1187年(文治3年)8月15日、頼朝は鶴岡八幡宮で放生会を催します。 これが鶴岡八幡宮例大祭のはじまりと伝えられています。 |
放生会では流鏑馬も奉納されました。 この前年、頼朝は東大寺再建の勧進のため奥州平泉へ赴く途中の西行と出会い、弓馬について話を聞いていたのだといいます。 |
宇多天皇の命により源能有が制定した弓馬の礼は、貞純親王に伝えられた後、貞純親王の子で清和源氏の始祖六孫王経基に伝承されました。 以後、経基→満仲→頼信→頼義→義家と相伝された弓馬の技術は、義家の弟義光によって甲斐の武田家・小笠原家に伝えられます。 鶴岡八幡宮では、春の鎌倉まつりに武田流流鏑馬が、秋の例大祭に小笠原流流鏑馬が奉仕されます。 |
★浄妙寺 |
浄妙寺は、頼朝の重臣足利義兼が1188年(文治4年)に創建した極楽寺を前身とする寺院。 義兼の妻は北条時政の娘時子。 時子は、北条政子と北条義時の同母姉妹兄弟と考えられています。 |
★厄除阿弥陀 |
長谷寺の阿弥陀如来は、厄除阿弥陀と呼ばれ、頼朝が42歳の厄除けに造立されたものと伝えられています。 |
1188年(文治4年)、頼朝は伊豆山権現・箱根権現と三嶋社を参詣する二所詣を始めます。 頼朝亡き後も続けられ、源実朝をはじめとする代々の将軍家はもちろん、北条政子・北条泰時など北条氏による二所詣も行われました。 特に実朝は多くの和歌を残しています(『金槐和歌集』)。 |
★義経、平泉で自刃! |
1185年(文治元年)、頼朝と対立して都を落ちた源義経は、1187年(文治3年)の春頃になって奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。 正妻の郷御前や子らも一緒でした。 しかし、秀衡が亡くなると、跡を継いだ泰衡は、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、義経を自刃に追い込みます。 義経の首は、腰越の浜に運ばれ、6月13日、和田義盛と梶原景時が首実検を行ったのだといいます。 |
腰越の浜での首実検後、捨てられた義経の首は境川を遡上して白旗神社付近に流れ着いたのだといいます。 |
白旗神社の近くには、義経の首を洗い清めたと伝えられる井戸が残されています。 |
白旗神社は源義経を祀る社。 白旗神社の毘沙門天は義経ゆかりの京都の鞍馬寺の毘沙門天を勧請したもの。 7月の白旗まつり(例大祭)では、義経と弁慶の神輿が渡御します。 |
義経が平泉で自刃する前の3月、頼朝は亡母由良御前の供養のため、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場に五重塔を建て始めます。 頼朝は、6月9日の五重塔の供養が終わるまで義経の首を鎌倉に入れなかったのだといいます。 そのため、腰越の浜での首実検が6月13日になってしまったようです。 |
★奥州征伐の祈願所 |
1189年(文治5年)7月、頼朝は伊豆山権現の専光房良暹に命じて御所の裏山に奥州征伐の祈願所(持仏堂)を設けます。 本尊は、頼朝が三歳のときに京都の清水寺から下された観音像でした。 持仏堂は、頼朝亡き後に法華堂と呼ばれるようになります。 この年の9月3日、奥州藤原氏が滅亡します。 祈願所を建てた良暹は、石橋山の戦いで頼朝を助けた梶原景時の兄という説があるようです。 |
1189年(文治5年)、北条時政は願成就院(伊豆の国市)、和田義盛は浄楽寺(横須賀市)を建立して奥州征伐の成功を祈願しています。 いずれも運慶の真作が置かれている寺です。 |
★小動神社 |
小動神社は、文治年間(1185〜90)に佐々木盛綱が近江の八王子社を勧請したのが始まりと伝えられています。 盛綱は近江源氏佐々木秀義の三男。 1180年(治承4年)の山木館襲撃で加藤景廉とともに山木兼隆を討ち取った武将。 7月の天王祭は、江の島の八坂神社との行合祭。 |
★鞍馬寺の毘沙門天 |
奥州藤原氏を滅ぼして10年にも及ぶ戦乱の世に終止符をうった頼朝は、1190年(建久元年)、ついに上洛を果たします。 この上洛で鞍馬寺を訪れた頼朝は、行基作と伝わる毘沙門天像二体のうちの一体を賜り、翌年、その像を安置するため、鎌倉に毘沙門堂を建立。 それが白山神社の始まりと伝えられています。 |
上洛した翌1191年(建久2年)2月21日、頼朝は、木曽義仲の襲撃で損傷した後白河法皇の法住寺殿の修造に取りかかります。 指揮担当したのは、中原親能・大江広元・昌寛の三名。 法皇が平清盛に命じて創建された蓮華王院は、法住寺殿の一画にありました。 現在は、本堂の三十三間堂が残されています。 |
1191年(建久2年)4月、後白河法皇の法住寺殿を修繕するため在京していた大江広元は、検非違使の職務として賀茂祭(葵祭)に供奉している。 賀茂祭(葵祭)は、下鴨神社・上賀茂神社の祭礼。 |
★鶴岡八幡宮の焼失と再建 |
1191年(建久2年)3月4日、小町で発生した火事の火の粉が鶴岡八幡宮の五重塔に燃え移り、鶴岡八幡宮が焼失。 直ちに再建に取り掛かった頼朝は、大臣山の中腹に上宮(本宮)を建立し、11月21日、改めて石清水八幡宮の神霊を迎えました。 鶴岡八幡宮が現在のような姿となったのはこの時から。 毎年12月16日には、石清水八幡宮の神霊を迎える儀式を再現した御神楽が執行されます。 |
1192年(建久3年)3月13日、後白河法皇が崩御。 法住寺殿の一画に建立された法華堂に葬られました(後白河天皇法住寺陵)。 この年の7月12日、頼朝は念願の征夷大将軍に任命されています。 鶴岡八幡宮での辞令交付式で辞令を受け取ったのは三浦義澄でした。 8月9日には北条政子が男児(のちの源実朝)を出産しています。 |
★永福寺 |
1191年(建久2年)、前年から建立が始まっていた永福寺の苑池と中堂が完成します。 中堂は「二階堂」と呼ばれ、奥州平泉の中尊寺の大長寿院を模したものでした。 1193年(建久4年)には阿弥陀堂、1194年(建久5年)には薬師堂が建立されています。 2019年(平成31年)4月、平泉町から中尊寺ハスが鎌倉市に寄贈され、2021年(令和3年)から永福寺跡で見ることができるようになりました。 |
★曽我兄弟の仇討ち |
1193年(建久5年)5月28日深夜、 頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に、曽我兄弟の仇討ち事件が発生し、工藤祐経が討たれました。 實相寺は、祐経の屋敷跡に孫の日昭が開いた寺。 |
親の仇工藤祐経を討ち取った曽我兄弟でしたが・・・ 兄の十郎祐成は仁田忠常に討ち取られ、弟五郎時致は御所五郎丸に捕らえられて梟首されています。 |
仮粧坂は、曽我兄弟の弟五郎時致と梶原景季の遊女をめぐる恋物語の舞台となりました。 曽我五郎時致の恋物語 |
曽我兄弟の父は河津祐泰、頼朝の挙兵に敵対した伊東祐親は祖父。 父の祐泰が1176年(安元2年)に工藤祐経に暗殺されたため、母の満江御前が再婚した曽我祐信を養父として育ちました。 伊東の東林寺には、祐泰と曽我兄弟の五輪塔が建てられています。 |
1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りでは、頼朝の嫡男頼家が愛甲季隆の指南で初めて鹿を射とめています。 母の北条政子にも知らされますが・・・ 「武将の嫡子が原野の鹿や鳥を獲るのは珍しいことではない。安易に使いをよこすのは、かえって煩わしいだけだ」 と冷たい態度だったのだとか。 |
1193年(建久4年)の曽我兄弟の仇討ちがきっかけで頼朝の異母弟範頼が謀反の疑いをかけられます。 範頼は、修禅寺に幽閉された後、梶原景時らに攻められ自刃したのだと伝えられています。 その一方で生存説も各地に存在し、北本市の蒲桜や横浜市金沢区の太寧寺に伝えられています。 源範頼の謀反 |
範頼が修禅寺に幽閉されると、範頼の子の範円と源昭は、比企尼の助命嘆願で救われ、比企尼から横見郡吉見庄(現在の埼玉県吉見町)を分与されたのだといいます。 吉見町は、平治の乱後、範頼が住んだ地と伝えられ、範頼が隠れ住んだという安楽寺や範頼館跡とされる息障院があります。 範圓と源昭は、ときがわ町の慈光寺の別当を勤めたとも・・・ 源昭は調布市の深大寺の別当も兼ねたのだとか。 |
三島市玉沢の妙法華寺は、工藤祐経の孫日昭が鎌倉の材木座に建立した法華堂を前身としています。 |
★三浦義明の墓 |
材木座の来迎寺は、頼朝が1180年(治承4年)の衣笠合戦で最期を遂げた三浦義明の菩提を弔うために建立した能蔵寺を始まりとしています(1194年(建久5年)建立)。 多々良重春は義明の孫で、衣笠合戦の前哨戦となった小坪合戦で討死しました。 |
三浦義明は、三浦一族の総帥。 1180年(治承4年)、畠山重忠・河越重頼・江戸重長に衣笠城を攻められて最期を遂げました(衣笠合戦)。 鎌倉に能蔵寺を建てた年、頼朝は義明の本拠地にも義明を供養するための満昌寺を建立しています。 |
1194年(建久5年)閏8月1日、頼朝は三崎の津に山荘を建てるために出かけています。 三崎は三浦の総鎮守・海南神社が鎮座する地で、三崎の白浪と青山の景色は、極めて優れていたようです。 山荘は三つあって「椿の御所」・「桜の御所」・「桃の御所」と呼ばれていたのだとか。 その山荘跡には大椿寺・本瑞寺・見桃寺が建てられています。 |
★頼朝暗殺を企てた平景清 |
仮粧坂には、頼朝の暗殺を企てたという平景清が幽閉されていたという牢跡(景清窟)が残されています。 1195年(建久6年)、頼朝は東大寺の大仏殿の落慶供養に参列します。 その時、景清は頼朝暗殺を企てたのだといいます。 安養院には、景清の娘人丸姫の「人丸塚」があります。 永福寺跡には、景清の兄忠光の頼朝暗殺伝説が残されています。 |
★頼朝が望んでいた大仏建立 |
現在の鎌倉大仏の鋳造が始められるのは1252年(建長4年)のことですが、上洛の際、東大寺の大仏を見た頼朝は「東国にも大仏を」と望んでいたのだといいます。 その遺志を受け継いだのが大仏造立を発起した稲多野局だったのだと伝えられています。 稲多野局は頼朝の上洛にも従っていたのだとか・・・ |
東大寺の大仏殿の落慶供養のため上洛した頼朝は、北条政子・嫡男頼家・長女大姫を伴っていました。 上洛の真の目的は、大姫を後鳥羽天皇の妃にすることだったともいわれています。 しかし、頼朝の夢は叶うことなく、大姫は1197年(建久8年)7月14日に死去しています。 大姫は、1184年(寿永3年)に懐いていた木曽義高が誅殺されたことで病気となり生涯治ることはなかったといいます。 上洛前年の1194年(建久5年)、頼朝は大姫の治癒祈願のため、霊山寺(日向薬師)を参詣しています。 |
★頼朝の死 |
1199年(建久10年)1月13日、源頼朝死去(享年53)。 前年末に参列した相模川の橋供養の帰りに落馬したことが原因と伝えられますが、詳しい死因は不明です。 遺体は持仏堂に葬られました。 現在の墓塔は江戸時代に建てられたもの。 |
『北条九代記』は・・・ 稲村ヶ崎で安徳天皇の亡霊を見た頼朝は、急にめまいがして落馬。 すぐに供をしていた者が助け起こしますが、御所に帰った後に病気となり亡くなったのだと伝えています。 |
鶴岡八幡宮の境内にある白旗神社は、死後「白旗明神」の神号を賜った頼朝を祀るため、北条政子が創建したのだと伝えられています。 のちに源実朝を祀る柳営社と合祀されています。 |
法華堂跡の白旗神社は、明治の神仏分離で頼朝を祀る神社として建立されました。 雪ノ下の松源寺(廃寺)にあった頼朝の古牌が奉納されています。 西御門の来迎寺に安置されている如意輪観音像は法華堂にあったのだといいます。 |
源義経や安徳天皇の怨霊が・・・ 大慈寺建立縁起と頼朝の死因 |
横浜市戸塚区の平戸白旗神社には、鶴岡八幡宮の相承院から送られたという頼朝の遺髪が伝えられ、3年に一度、例大祭の日に公開されています。 横須賀市の東漸寺には、松源寺の地蔵像が置かれています。 流人時代、頼朝は日金山東光寺(熱海市)の地蔵菩薩を信仰し、鎌倉の松源寺にはその模造が本尊として置かれていたのだといいます。 |
1197年(建久8年)、頼朝は信濃善光寺を参詣したと伝えられています。 かつて信濃善光寺にあった源三代将軍堂には、源頼朝像・源頼家像・源実朝像が祀られていたそうです。 源頼家像は失われてしまったようですが、源頼朝像と源実朝像は甲斐善光寺にあって、いずれも最古の木像とされています。 |
1201年(正治3年)、頼朝の従兄弟の寛伝は、住持する三河国の瀧山寺で頼朝の三回忌を営んでいます。 その際に運慶とその長男湛慶に聖観音菩薩像と脇侍の梵天・帝釈天〉像を造立させ、聖観音像には頼朝の鬚(あごひげ)と歯を納めたのだと伝えられています。 |
頼朝の時代その1 |
北条の時代その1 |
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