|
1185年(文治元年)暮れ、源頼朝の追手から逃れるため吉野山に籠った源義経だったが・・・ 吉野の僧兵に追われる身となり、郎党の佐藤忠信が囮となって義経一行を落ち延びさせたのだという。 花矢倉は、忠信が追ってくる横川覚範らに矢を浴びせたところと伝えられている。 |
1180年(治承4年)、奥州平泉の藤原秀衡のもとにいた源義経は、源氏再興の挙兵をした兄頼朝のもとへ馳せ参じるが、その際、秀衡の命により随行したのが佐藤継信・忠信の兄弟。 佐藤兄弟は義経の郎党として平家追討で活躍するが、兄の継信は屋島の戦いで討死した。 『義経記』によると・・・ 1185年(文治元年)11月、頼朝と対立して都落ちとなった義経は、大物浦から船出して西国を目指したが暴風雨で失敗。 義経は忠信らとともには吉野山に逃げ込むが、金峯山寺の僧兵に追われる身となり、忠信が囮となって義経一行を落ち延びさせた。 その後、都に戻った忠信は義経の行方を探していたが、北条義時に攻められて自害したのだという。 ただ『吾妻鏡』では・・・ 大物浦での難破後、忠信は義経とは宇治辺りで別れて都に戻るが、以前に関係していた若い女に手紙を送ったことで、鎌倉御家人の糟屋有季の知る所となり、潜伏していた中御門東洞院を襲撃されて自害したのだと伝えられている(1186年(文治2年)9月22日)。 |
花矢倉の下には、忠信に討ち取られた覚範の首塚がある。 |
花矢倉展望台は吉野一眺めの良い場所で、金峯山寺の蔵王堂を望むことができる。 |
吉野水分神社 |
義経隠れ塔 |
金峯山寺 |
静御前の舞塚 (勝手神社) |
吉野山で5日間を過ごした後、別れた義経と静御前。 静御前は、蔵王堂(金峯山寺)に辿り着いたところを捕えられ、勝手神社の社殿の前で舞い、荒法師たちを感嘆させたのだと伝えられている。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|